日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年4月2日小西見村百姓中宛帥法印歓中折紙を読む

(折紙)

観心寺*1七郷山之儀ニ付て申事在之条、旧冬双方召寄有様聞届、一柳伊豆守*2如折帋*3申付候処、只今七郷之内おにしミ村*4之者共、寺衆侮、薪苅候者共、日々ニ追立、及打擲刃傷之由、言語道断之儀候、当御代喧𠵅*5停止之処、背御法度*6、曲事不及是非次第ニ候、所詮*7、自今以後おにしミ領山之分堅相押*8、一人にても於立入者、可令成敗候、万一柴以下一本にても苅たる跡*9於在之者、右之在所へ可相懸*10候間、可成其意者也、謹言、

    天正十五             帥法印

      卯月二日             歓中(花押)

      おにしミ村

         百姓中

               

                   「大日本古文書 観心寺文書」636号、587頁

 

(書き下し文)

 

観心寺と七郷と山の儀について申すことこれあるの条、旧冬双方召し寄せありよう聞き届け、一柳伊豆守折紙のごとく申し付け候ところ、只今七郷のうち小西見村の者ども、寺衆を侮り、薪苅り候者ども、日々に追い立て、打擲・刃傷に及ぶのよし、言語道断の儀に候、当御代喧嘩停止のところ、御法度に背くといい、曲事是非に及ばざる次第に候、所詮、自今以後小西見領山の分かたくあい押し、一人にても立ち入るにおいては、成敗せしむべく候、万一柴以下一本にても苅りたる跡これあるにおいては、右の在所へあい懸るべく候あいだ、其意をなすべき者なり、謹言、

 

 

(大意)

観心寺と七郷の間に申し分がそれぞれある件について、昨年冬双方を呼び寄せ、実態を聞き確かめ、一柳直末が折紙にて命じたところ、現在七郷のうち小西見村の者どもが、寺衆を侮り、薪を刈り取る者を日ごとに追い払い、打擲・刃傷沙汰に及ぶこと、言語道断である。今は喧嘩停止の御代で、御法度に背くことになり、その上曲事をはたらくとは許しがたいことである。今後小西見村の百姓は山へ入ることを我慢しなさい。一人でも立ち入る者がいたなら、成敗するものとする。万一芝木一本たりとも刈り取る痕跡を見つけたならば、村全体の責任とするので、よくよく含んでおきなさい。

 

観心寺と七郷の位置は次の通りで、地図中の「鬼住」が「おにしミ村」にあたる。大和や紀伊の国境付近で山深い、谷沿いの郷村であった。

 

Fig. 河内国錦部郡おにしミ村ほか観心寺庄七郷略図 

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                    「日本歴史地名大系」大阪府より作成

この文書で注目されるのが下線部の「当御代喧𠵅停止」「御法度」の文言である。「当御代」つまり今の天皇の代において喧嘩=私戦が禁じられ、それが秀吉の定めた法=「御法度」である旨記されている。観心寺と七郷が山野の利用をめぐり「打擲刃傷」沙汰に及んでいるとあり、とくに小西見村の百姓は一柳直末らの裁定を無視していた。島津氏との合戦中に、河内国の百姓が統一政権の意思をかえりみなかったというのは興味深い。

 

また「寺衆を侮る」とあるが、浅野長政が一柳直末に宛てた書状にも「右之寺山之儀、碓井*11年寄衆、七郷之百姓共と申合、長袖*12之儀ニ候へハ、非分申懸、山内へ観心寺衆立セ不申候」(「観心寺文書」629号、581~582頁)と見え、百姓たちが僧侶をなめきっている様子がうかがえる。

 

武家や寺社のような権門が、在地の百姓の自力救済慣行を禁ずるのは容易でなかったことを物語る文書といえる。

 

*1:河内国錦部郡観心寺村、山号は檜尾山

*2:直末

*3:年未詳5月19日「観心寺文書」635号文書、586頁

*4:小西見村、のち鬼住村、河内国錦部(にしごり)郡

*5:「嘩」の異体字

*6:~であり、その上

*7:つまりは

*8:我慢する

*9:痕跡

*10:責任を負う

*11:石見川下流河内国石川郡碓井村か

*12:公家や坊主を罵る言葉