明治12年1月1日現在の府県、郡区別人口構成は以下の通りである。人口最高を誇るのは石川県の185万人あまりで、東京府の倍近い。また沖縄県では女性人口比率が高い
明治11年7月22日に発せられた太政官布告17号は「郡区町村編制法」を自称している。基本的な史料なので全文を掲げておく。
郡区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告17号)
郡区町村編制法、左の通り定められ候条、この旨布告候こと
第一条 地方を画して府県のもと郡区町村とす
第二条 郡町村の区域・名称はすべて旧による
第三条 郡の区域、広闊に過ぎ、施政に不便なるものは、一郡を画して数郡となす、東西南北上中下某郡というがごとし
第四条 三府*1五港*2そのほか人民輻輳*3の地は別に一区となし、その広闊*4なるものは区分して数区となす
第五条 毎郡に郡長各一員を置き、毎区に区長各一員を置く、郡の狭小なるものは数郡に一員を置くことを得
第六条 毎町村に戸長各一員を置く、また数町村に一員を置くことを得
追加
第七条 この編制法を施行しがたき島嶼はその制を異にするを得
第八条 地方の便益もしくは人民の請願により止むをえざる理由あるものは郡区町村の区域名称を変更することを得
第九条 第三条、第四条、第七条、第八条の施行を要するときは府知事・県令より内務卿に具状*5し、政府の裁可を受くべし
ただし町村区域名称の変更は内務卿の認可を受くべし
(漢文体を書き下し、旧字体や異体字は現漢字に改めた)
この趣旨をまとめると下図のようになる。「府県ー郡区ー町村」が行政団体であるのと同時に「国ー郡ー町村」という領域的空間的概念も採用した。これは交通通信技術の時代的制約から来るものであり、たとえ今日の通信速度をもってしても人々になじみある地名を「一新」するなど荒唐無稽であることは容易に想像できるだろう。府県が国にとって替わったという発想はあまりに短絡的、超歴史的と断ぜざるを得ない。駅名や市名に国名が冠せられる事例に事欠かないことを失念しているからである。
Fig. 国郡ー府県概念図
この二本立ての区画を一元化することに相当な困難をともったであろうことは、下表の「武蔵国北足立郡浦和」の例を見るまでもなかろう。なお記載は東京府、京都府、大坂府(ママ)、沖縄県を除いて「イロハ」順である。また北海道は「開拓使」とされている。
明治5年1月の府県郡と国郡の対照表を作成した。
かなり特殊な例として「置賜県」が挙げられる。現在の山形県米沢市周辺であるが、「羽前国置賜郡の内」のみでひとつの県を形成するというのは置賜県のみである。おそらくは上杉領がそのまま引き継がれたのだろう。
奥羽本線福島米沢間は板谷峠という急峻な上り坂を登る。福島で機関車が増結され、米沢に向かう列車内から途中通過するスイッチバック方式の駅を横目で眺めるのはフィールドワークの目を鍛える第一歩と言えただろう。新幹線は速くて快適だが、鉄道を単なる中長距離都市間旅客移動手段に特化してしまい、旅行を味気ないものにしてしまったことは確かであろう。
なお参考までに上表でセルを塗りつぶしたコードと、塗りつぶしたセルを数えるユーザー定義関数を示しておく。
Sub 国郡ローズピンク()
Dim i As Long, j As Long
For i = 7 To 646
For j = 4 To 631
If Cells(i, j).Value <> "" Then
Cells(i, j).Interior.Color = 10984689
Else
Cells(i, j).Interior.ColorIndex = 0
End If
Next j
Next i
MsgBox "終了しました"
End Sub
Function ColorCnt(rng As Range) As Long
Dim Cell As Range
For Each Cell In rng
If Cell.Interior.Color = RGB(241, 156, 167) Then
ColorCnt = ColorCnt + 1
End If
NextEnd Function
版籍奉還によりそれまでの大名は「藩知事」に任命された。各藩知事は以下の通りである。
興味を引く点を挙げてみよう。
第一に9の「長州藩」としてよく知られる「周防山口」の毛利宰相家である。ただ長州、つまり長門ではなく周防と認識されている点は興味深い。今後も関係史料を見ていく中でいつごろから「長州藩」なるものが出現したのか探ってみたい。
第二に71の「丹羽五郎左衛門」と249の「北条相模守」である。前者は丹羽長秀が「五郎左衛門」だったこと、後者は藩祖が小田原北条氏(相模守)であったことから、中世末期から近代まで家を守り抜いたことがうかがえる。有力大名だけが生き残ったわけではないのである。
第三に222の「大岡越前守」と231の「柳生但馬守」という時代劇でもおなじみの名前が見えることである。もちろんあの「名奉行大岡越前」でもなければ「剣豪柳生但馬守宗矩」でもないが受領名も「家名」として受け継がれている点は確認できる。