前々回、紹介した高木昭作論文*1に関する反応を見ておきたい。
佐々木潤之介氏は次のように述べている。
高木は、一般に身分法令とされる天正十九年の秀吉の定三ヶ条の中の、「侍」は「武士」でないとし、この限りではこれまで、少なからぬ人たちがそう感じとりつつも言いきれなかったことを、はっきりと指摘した。
(108頁、下線は引用者)
この解釈は30年以上前に共有されている。
前回の記事で藤井讓治氏の、豊臣期固有の身分としての「奉公人」とする見解を紹介した。
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その論拠が「人掃令」として知られる法令である。ただし、年代比定は天正19年ではなく、同20年とする立場をとられている。
急度申候、
一、従当(闕字)関白樣*1六十六ヶ国へ人掃之儀被仰出候之事、
付、中国御拝領分ニ岡本次郎左衛門、小寺清六被成御下、廣嶋*2御逗留之事、
一、家数人数男女老若共ニ一村切ニ可被書付事、
付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ可書出事、但書立案文別紙遣之候、
一、他国之者、他郷之者、不可有許容事、
付、請懸り手*3有之ハ、其者不可有聊爾之由、血判之神文を以可被預ケ置事、
付、他国衆数年何たる子細にて居住と可書載候、去年七月以来上衆人を可憑と申候共、不可有許容事、
一、廣嶋私宅留守代、并在々村々ニ被置候代官衆之書付、至佐与*4ニ可被指出事、
一、御朱印之御ケ条*5、并地下究之起請文進之候、令引合無相違様ニ可被仰付事、
右之究於御延引者、彼御両人直ニ其地罷越、可致其究之由、一日も早々家数人数帳ニ御作候て可有御出候、於御緩者、其地下/\へ可為御入部之由候之間、為御届こま/\申達候、已上、
天正十九年*6
三月六日 安国寺
佐世与三左衛門(花押)
(押紙)*7
「広家*8奉行」
粟屋彦右衛門尉殿
桂 左馬助殿
『大日本古文書 吉川家文書之二』975号文書
(書き下し文)
一、当関白樣より六十六ヶ国へ人掃の儀仰せ出され候のこと、
つけたり、中国御拝領分に岡本次郎左衛門、小寺清六御下しなられ、廣嶋御逗留のこと、
一、家数・人数、男女老若共に一村切に書き付けらるべきこと、
つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、一所に書き出すべきこと、ただし書き立て案文、別紙これをつかわし候、
一、他国の者、他郷の者、許容あるべからざること、
つけたり、請懸り手これあらば、その者いささかもしかるべからざるのよし、血判の神文をもって預け置かるべきこと、
つけたり、他国衆、数年なんたる子細にて居住と書き載せべく候、去年七月*9以来上*10衆人*11をたのむべきと申し候とも、許容あるべからざること、
一、広島私宅留守代、ならびに在々村々に置かれ候代官衆の書付、佐与にいたり指し出さるべきこと、
一、御朱印の御箇条、ならびに地下究めの起請文これをたてまつり候、引き合わせしめ相違なきように仰せ付けらるべきこと、
右の究めご延引においては、かのご両人じきにその地罷り越し、その究めいたすべきのよし、一日も早々家数人数帳にお作り候て御出しあるべく候、お緩みにおいては、その地下地下へご入部たるべきのよし候のあいだ、お届けさせこまごま申し達し候、已上、急度申し候、
(大意)
一、秀次樣より六十六ヶ国へ人掃が命じられました。
つけたり、中国領の分へ岡本次郎左衛門、小寺清六両名を遣わされ、広島に滞在することになりました。
一、家数・人数、男女老若ともに一村ごとに書き出されるようにしてください。
つけたり、奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓、まとめて一箇所に書き出すべきこと。ただし書き立て案文は別紙にして渡すこととする。
一、他国の者、他郷の者、その村々に住まわせることは認めない。
つけたり、保証人がいるならば、その者が胡乱なるものなら、血判の起請文にて村々に置くこと、
つけたり、他国衆は、何ヶ年、これこれこういう事情で居住していると帳面に書き載せること。天正19年7月以後は衆人監視とするといっても、許容しない。
一、広島私宅の留守居、ならびに在々村々に任命した代官衆の名前を、佐世元嘉に差し出させること。
一、御朱印の御箇条、ならびに村々で書き記した起請文を差し出させ、突き合わせた上で相違がないように命じられるべきこと。
右の決まりにつき遅延があったなら、岡本・小寺の両人が直接その村へ出張り、その決まり通りするようにとのこと、一日も早々家数人数帳を作成し差し出すように。怠慢が見られる場合は、その地下地下へ立ち入るべきということなので、詳細申しました。以上。しっかりと伝えました。
この文書は毛利家家臣の安国寺恵瓊、佐世元嘉が吉川広家の奉行粟屋・桂両名に宛てたものである。
下線部に見られるように「奉公人は奉公人」「町人は町人」「百姓は百姓」としてそれぞれ帳面に書き出すように命じている。この記述から「奉公人」という身分が存在したと藤井氏は主張される。
兵農分離の「兵」に奉公人を加えるべきか否かは議論の分かれるところであるが、「侍」が武家奉公人であるという理解は共有されている。
1980年代、いわゆる「身分法令」中の「奉公人、侍・中間・小者・あらし子にいたるまで」の「侍」を武士と解釈すべきでないと、高木昭作氏が指摘された*1。
高木氏の解釈はすぐに定着し、武家奉公人研究の深化をうながす契機となった。
たとえば磯田道史氏は津山藩の、足軽・中間などの武家奉公人供給先の村々が城下近辺に限られており、僻遠の村人が武家奉公に出ることを禁じられていたことを明らかにされた*2。
藤井讓治氏は、「奉公人」身分が豊臣期固有の存在であるとし、奉公人内部に「侍(若党)・中間・小者・あらし子」の序列があり、豊臣末期には「侍」層とその他の層との間に分化が見られるようになるとされる*3。
これらをわかりやすく図示したのが平井上総『兵農分離はあったのか』*4 43頁および47頁である。平井氏の作成された図を引用したみたい*5。
ただし、兵農分離の「兵」に奉公人を入れるかどうかについては、見解の相違がある。しかし「侍」が戦闘員ではあるものの、武士でないことにおおむね異論は見られない。
同時期に注目された「豊臣平和令」=「惣無事令」がその後教科書に採用されているのに対して、「侍」が武士ではなく武家奉公人を指すという理解はあまり知られているように思えない。
いったいこれはどうしたことだろうか。
より外、別ニ可行方無之候、随分念を入、可被尋
出候、以上、
和久左衛門大夫*4城破却之儀、去年申付候処、号寺家を残置、任雅意*5之条、昨日加成敗*6候、近年逆意之催、不可有其隠候*7、就其、彼一類并被官人、其在所*8へ逃入之由候条、急度搦捕之可出候、下々*9於隠置者、雖至後々年、聞付次第、当在所*10加成敗候*11、別而念を入尋出、可有成敗候、猶上林紀伊守可*12申候、恐々謹言、
(天正九年) 日向守
六月廿一日 光秀(花押)
出野左衛門助殿
片山兵内殿*13
進之候*14
藤田ほか編『明智光秀』109号文書、109頁
(書き下し文)
和久左衛門大夫、城破却の儀、去年申し付け候ところ、寺家を残し置くと号し、雅意に任せるの条、昨日成敗加え候、近年逆意の催し、その隠れあるべからず候、それについて、彼の一類ならびに被官人、その在所へ逃げ入るのよし候条、急度これを搦め捕り出すべく候、下々隠し置くにおいては、後々年にいたるといえども、聞き付け次第、当在所成敗を加え候、べっして念を入れ尋ね出し、成敗あるべく候、なお上林紀伊守申すべく候、恐々謹言、
なおもって、和久左息井上介・肥前入道取り逃げ候、その山中よりほか、
別に行くべき方これなく候、随分念を入れ、尋ね出されるべく候、以上、
(大意)
和久左衛門大夫、居城を破却すべきことを昨年命じたところ、寺などは壊さず残すと主張し、わがまま放題の振る舞いをしているので、昨日裁きを行い、逆心を抱いていることが明白になりました。それで和久の親類縁者および家臣どもが、そなたの村々へ逃亡したそうですので、かならず彼らを捕縛してください。下々の者が彼らをかくまうなどすれば、数年後といえども、こちらの耳に入り次第、在所全体を成敗しますので、入念に探し出し、裁きの場に出すように。詳しくは上林紀伊守が申します。謹んで申し上げました。
追って申し述べます。和久左衛門大夫の子息井上介や肥前入道も逃亡しました。そちらの村々以外に、行くところもないので入念に探し出すように。以上。
和久城周辺図
Google Mapsより作成
そういえば脇付をもっとも使うのは医師ではないかと思う。完全に個人的な観測範囲内だが、紹介状に「○○先生 御侍史」と書かれていないものは見たことがない。これは病院のヒエラルヒーと無関係でもあるようだ。個人のクリニックから大病院への場合はもちろん、その逆もまた然りである。
一方、就職活動やビジネスなどの場面で、文末に「恐惶謹言」などとしたためようが、「人事部 人々御中」と書こうが、「××課長 御机下」などと封筒に記そうが、おそらく奏功しないだろう。
大変興味深い。
法花寺西蔵対寺家、毎度緩怠*1之子細*2就在之、去
年生害*3させ可遣候処、風をくらひ*4走*5候間、不及
了簡*6候、然□□(者其)村へ切々*7立入由候末、其元於在
之者搦捕可上候、自然於見隠*8聞隠*9者可為曲事候也、
慶長二年
正月廿三日 隠岐(石田正継*10印)
西山*11
名主百姓庄屋
侍中
東京大学史料編纂所「大日本史料総合データベース」「南部晋文書」より
(書き下し文)
法花寺西蔵、寺家に対し、毎度緩怠の子細これあるについて、去年生害させつかわすべく候ところ、風を食らい、走り候あいだ、了簡におよばず候、しからばその村へ切々立ち入るよし候すえ、そこもとこれあるにおいては、搦らめ捕り上ぐべく候、自然見隠し・聞き隠しにおいては曲事たるべく候なり、
(大意)
法花寺西蔵が寺に対して、何度も過失がありトラブルが絶えないので、昨年処刑させるべく使者を派遣する予定だったのだが、西蔵はこれを察知して逃亡した。まことに腹立たしいことだ。ついては、西山村へ何度も現れたそうで、そこにいるのならば、すぐに捕縛し、当方へ出頭させなさい。万一、見て見ぬ振りをしたり、聞き及んでいるのに知らない振りをした場合は罪科である。
宛所から西山村には「侍」「庄屋」「名主」「百姓」と呼ばれる者がいることがわかる。
また、その場で殺害せず、生け捕りにして佐和山まで連れてくるように命じているところが興味深い。村が実力行使をするのではなく、あくまで「公儀」として処罰するという姿勢を見て取ることができる。「去年生害させつかわすべく候ところ」とあるのも、法花寺が処刑するのではなく、佐和山から派遣した者が行使するという意味ではないだろうか。
Google Mapsより作成
2018年6月29日追記 「名主」「百姓」と読んでみたが、「名主百姓」とすべきかも知れない。