1980年代、いわゆる「身分法令」中の「奉公人、侍・中間・小者・あらし子にいたるまで」の「侍」を武士と解釈すべきでないと、高木昭作氏が指摘された*1。
高木氏の解釈はすぐに定着し、武家奉公人研究の深化をうながす契機となった。
たとえば磯田道史氏は津山藩の、足軽・中間などの武家奉公人供給先の村々が城下近辺に限られており、僻遠の村人が武家奉公に出ることを禁じられていたことを明らかにされた*2。
藤井讓治氏は、「奉公人」身分が豊臣期固有の存在であるとし、奉公人内部に「侍(若党)・中間・小者・あらし子」の序列があり、豊臣末期には「侍」層とその他の層との間に分化が見られるようになるとされる*3。
これらをわかりやすく図示したのが平井上総『兵農分離はあったのか』*4 43頁および47頁である。平井氏の作成された図を引用したみたい*5。
ただし、兵農分離の「兵」に奉公人を入れるかどうかについては、見解の相違がある。しかし「侍」が戦闘員ではあるものの、武士でないことにおおむね異論は見られない。
同時期に注目された「豊臣平和令」=「惣無事令」がその後教科書に採用されているのに対して、「侍」が武士ではなく武家奉公人を指すという理解はあまり知られているように思えない。
いったいこれはどうしたことだろうか。