日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

織田信長樂市場定書(圓徳寺文書)を読む

佐藤進一・百瀬今朝雄編『中世法制史料集 第五卷 武家家法Ⅲ』2001年、岩波書店、104頁

 

     (木札)

  定   樂市場

(補註)本令が対象とする楽市場について、勝俣鎮夫氏は、信長の稲葉山城下の加納とする通説に対して円徳寺々内の楽市場とし、本令により「旧来から存在した円徳寺寺内楽市場の保持した諸権利」を安堵したものとされた(『戦国法成立史論』」六七頁)。352頁

 

一、當市場越居之者、分國往還不可有煩、井借錢、借米、地子、諸役令免許訖、雖爲譜代相博之者、不可有違乱之事

一、不可押買、狼藉、喧嘩、口論事

一、不可理不盡之使入、執宿非分不可懸申事、

右条々(引用書活字は二の字点)、於違犯之輩者、速可處嚴科者也、仍下知如件

  永禄十年十月 日      織田信長)

                  (花押)

 

(書き下し文)

ひとつ、当市場越し居るの者、分國往還煩いあるべからず、ならびに借錢、借米、地子、諸役免許せしめおわんぬ、譜代・相博の者たるといえども、違乱あるべからざるのこと、

ひとつ、押し買い、狼藉、喧嘩、口論すべからざること、

ひとつ、理不尽の使い入るべからず、宿をとり非分懸け申すべからざること、

右の条々、違犯の輩においては、すみやかに嚴科に処すべきものなり、よって下知くだんのごとし、

 

 

 

 

*借錢、借米、地子、諸役令免許訖:そのまま読むと市場に来た者どもはこれまでの負債関係を一切負わなくてもよい、という意味になる。網野善彦氏は無縁所、公界、楽市場に日本中世の「自由」を見いだしたが、果たしてそうなのかにわかに判断しがたい。かりに楽市令がそういう意味だったとすると、市場は日常的に徳政状態になってしまう。「地子」=地代や「諸役」=年貢諸役を無限定に免除すれば、社会は無政府状態になろう。

  網野氏の著書について簡潔にまとめているサイトはこちら

www.komazawa-u.ac.jp

 

*譜代相博之者:「譜代」は代々家業を継いできた者、「相伝」もほぼ同義なので、御用商人のような安定した経営基盤を持つ者たちを指すと思われる。

 

*押買:「おさえがい」と読むと「あらかじめ商品を買い占め、品薄の時に売り巨利を得る」中世の商慣行の意味になるが、ここでは「おしがい」と読み、不当に安い価格で強引に買い取ること。信長に限らず、戦国大名がたびたび押買禁令を出していることから、日常的に押し買いが行われており、それを禁ずる勢力との軋轢があったと思われる。

 

*理不盡之使:守護使などを指すと思われるが、信長や市場に来る者にとって「理不尽」であって、権利諸関係はそう単純ではないかも知れない。

天正10年6月17日山崎合戦戦後処理のひとこま

大日本史料の天正10年6月17日条に収載された古記録類に次のような記述が見える。

 

 「言経卿記」

六月十五日、一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢籠、則郷人一揆トシテ(=シテは合字)打之、首本能寺へ上了、

十七日、

  • 日向守内齋藤蔵助、今度謀反随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六條川原ニ被誅了、

七月二日、戊午、天晴、

  • 粟田口ニ去□日ニ明智日向守首ムクロ等続張付ニ懸了、齋藤蔵助同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、

 

  「兼見卿記」(六月条)

十八日、乙亥(ママ)、生捕齋藤内(ママ)蔵助、上洛、令乗車渡洛中、於洛中三條川原刎首、日向守同前曝之、於片田(堅田)伊加伊(猪狩)半左衛門搦捕云々、

廿三日、庚申(ママ)、日向守齋藤内蔵助築頸塚、粟田口之東(数字虫損)之北云々、自廿二日築之云々、奉行鑿原、村井清三(以下略)

 

 

 

(書き下し文)

 

「言経卿記」

六月十五日、ひとつ、惟任日向守、醍醐あたりに牢籠し、すなわち郷人一揆としてこれを討ち、首本能寺へあげおわんぬ、

十七日、

ひとつ、日向守内齋藤蔵助、このたび謀反随一なり、堅田に牢籠し、すなわち尋ね出し、京洛中車にて渡され、六條川原において誅せられおわんぬ、

七月二日、つちのえ、てんせい、

ひとつ、粟田口に去る□日に明智日向守首・ムクロなどつづけて磔に懸けおわんぬ、齋藤蔵助同前なり、そのほか首三千余、同所に首塚を築かれおわんぬ、

 

  「兼見卿記」(六月条)

十八日、きのとい(ママ)、生け捕り齋藤蔵助、上洛し、洛中乗車渡しせしめ、洛中三條川原において首を刎ね、日向守同前にこれをさらし、片田において伊加伊半左衛門搦め捕るとうんぬん、

廿三日、かのえさる、日向守齋藤内蔵助(の)頸塚を築き、粟田口の東(数文字虫損)の北とうんぬん、廿二日よりこれを築くとうんぬん、奉行鑿原、村井清三(以下略)

 

 

 

*牢籠:落ちぶれるという意味があることから、ここでは「落ちのびる」との意か。

*随一:先駆け、一番槍

*云々:文末を省略する意味ではなく、「人々が・・・と言っている」という意味。「猪狩半左衛門が堅田において搦め捕ったという話だ」という意味。

天正18年4月25日甲州九筋百姓宛伊奈忠次起請文を読む

徳川義宣『新修徳川家康文書の研究 第二輯』153頁、2006年、吉川弘文館

伊奈忠次ょり甲州九筋百姓に輿へたる起請文(天正十八年四月二十五日)   153頁


  起請文
當年田地何れも被入精、散田被仕一礼有之候上、壹札之表すこしも違候ハぬやうに一札之表二かりわけとのり候分者かり分二成共、ついはうになり共、少損免被引候て、年具ニなり共、いつれも百姓衆のそミのことくに可申付候、不限御蔵入諸給共二九筋之内、かやうニやくそく申候上、御脇衆へも御異見可申候、年貝めへり候とて難澁之地頭衆へハ、御藏前をいたし候てなりとも申合候、首尾ちかへ申間敷候、いよいよ(くの字点)精二入、田地耕作可被申候、其上其方ょり首尾ちかい候衆をはとかニ行はたものニあけ候歟、郷中をはらい可申候之間、其分油斷被申ましく候、右分違候ハゝ日本国中大小神祇御はつをかうむり、むけんにたさいいたすへき者也、仍起請文如件、
  天正十八年己丑   
   四月廿五日                   伊奈熊藏(血判力)
    九筋百姓中
         參


(書き下し文)


当年田地いずれも精を入れられ、散田仕まつられ一礼これあり上、一札の表すこしもたがいそうらわぬように一札の表に刈り分けと載り候分は刈り分になるとも、追放になりとも、少損免引かれ候て、年貢になりとも、いつれも百姓衆望みの如くに申し付くべく候、御蔵入にかぎらず諸給ともに九筋の内、かように約束申し候上、御脇衆へも御異見(=意見)申すべく候、年貢目減り候とて難澁の地頭衆へは、御藏前をいたし候てなりとも申し合わせ候、首尾違え申すまじく候、いよいよ精に入れ、田地耕作申さるべく候、そのうえ其方より首尾違い候衆をは咎に行ない、機物にあげ候か、郷中を払い申すべく候の間、その分油斷申されまじく候、右のわけたがい候わば、日本国中大小神祇御罰を蒙り、無間に堕在いたすべきものなり、よって起請文くだんのごとし、

 

 

(大意)


今年も田畑の耕作に精を入れられ、土地の割り当てが知行宛行状の趣旨に背かぬように、文書に「刈分」と記載されたものは稲を刈ってしまったものでも、追放処分になろうとも、年貢減免分を間引かれてその分年貢として納めてしまったとしても、いずれの場合においても「百姓衆」の希望通りのように命じます。蔵入地に限らず給人の土地であろうとも甲州九筋はこのように約束し、その上「御脇衆」にご意見をうかがうつもりです。年貢が目減りすると言って困窮している地頭には、蔵入地からの収入を分け与えてなんとか致します。上手に捌けない地頭はその罪を追及し、磔刑とするか郷村からの追放とするので、その点油断なきようにしてください。もしこの約束に背けば日本国中大小の神罰・仏罰を受け、無間地獄へ転落するものです。以上起請文の通りです。

 

 

九筋 
萬力筋:山梨郡、栗原筋:山梨郡、大石和筋:八代筋、小石和筋:八代郡、中筋:八代郡山梨郡巨摩郡、北山筋:山梨郡巨摩郡、逸見筋:北巨摩郡、武川筋:巨摩郡、西郡筋:巨摩郡八代郡


*散田:著者の徳川義宣氏は「領主の田地を割り当てること」(154頁)と解しているので、ここでもそれにしたがって、大意をとる。


*一礼:証拠となる文書、証文。


*表:文書、立札などで記載されている事柄。ここでは「文面の通り」といった意味合い。


*かりわけとのり:「かりわけ」は刈分小作を意味する。「刈り分けと載り」徳川氏が天正17年から18年にかけて行った五箇国惣検地において、検地帳に文付記載がされた。

https://www.city.mishima.shizuoka.jp/media/15010170_jpg_2014827_rad5BE84.jpg

 

 


天正検地帳の写真

 


http://www.city.funabashi.lg.jp/kurashi/gakushu/0005/p008847.html

 

これらの検地帳では「○○分△△作」と記載され、一筆の田畑に権利を持つ二人の関係が反映されている。「かりわけ」が「○○分」を指すのか「△△作」なのかこの文書だけではなんともいえない。


*少損免引かれ候て、年貢になりとも:「損免」は風水害や虫損などの不作により年貢を負けてもらうこと。この部分は「損免率が低く設定されたため、その分余計に年貢として納めた分」という意味。


*百姓衆:名主百姓あたりだろうか。


*御蔵入:徳川家康の直轄地。次の「諸給」と対になっている。


*諸給:諸給人、つまり家康の家臣に宛がわれた土地。蔵入地と諸給人が与えられた土地は年貢率など負担が異なる場合も少なくない。「御蔵入にかぎらず諸給ともに九筋の内、かように約束申し候」は「直轄地であろうがなかろうが、約束する」の意味。


*御脇衆:この文書の発給人である伊奈忠次より上位に位置する、家康の重臣と思われる。「御脇衆へも御異見可申候」とあることから、この時期の徳川政権は国人クラスの合議によって運営されていた、と言えそうだ。


*年貢目減り候とて難澁の地頭衆へは、御藏前をいたし候てなりとも申し合わせ候:年貢の入りが悪いと困っている地頭、つまり家康から土地を与えられた家臣たちには、直轄地からの収入から分け与えて、その台所を支えるつもりである、という意味。


*難澁:中世の「難渋」は多義的で「年貢などを納めない、義務を果たさない」などの意もある。


*其方より首尾違い候衆をは咎に行ない、機物にあげ候か、郷中を払い申すべく候:「百姓衆から訴えがあった領主は処罰し、磔刑に処するか郷村からの追放を命じる」という意味。この「郷中を払い」という文言から家康の家臣団が、郷村に本拠を構えていることがうかがえる。


*無間:無間地獄。

 

 

BSプレミアム「400年後の真実 慶長遣欧使節の謎に迫る」で紹介された伊丹宗味の史料について

出典はこちら。

「Don pedro Itami Somi segun fuentes Europeas 欧州の資料から見た伊丹宗味」

 

天理大学 学術情報リポジトリ

 

翻訳アプリにかけてみたが、ファイル変換しているうちに文字が置き換わってしまいうまくいかないので諦めた。ただ、日本語がところどころに入っているので、年代と人名を拾うことはできそうなので一目見るだけでも参考になりそうだ。