日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「創られた伝統」としての「親日国トルコ」言説

トルコといえば二言目には親日国であり、エルトゥールル号に言及されるのが21世紀の定番である。

 

しかしこの言説の起源は案外新しく、1980年代以前にはほとんど語られることはなかったと思う。

 

1980年代半ばまで「トルコ」という言葉を聞いた日本人が最初に連想したのは、小アジア半島に位置する国の名前ではなく、まったく別のものであったはずだ。それは古い映画やドラマを見ればすぐに確認できる。いかついおにいさんが若い女性に「じゃあ、トルコで働いてもらうかな」といった場合、イスタンブールアンカラで働く国際人として活躍して欲しい、という意味ではもちろんない。

 

このあたりの事情は「1984トルコ人留学生」で検索すれば確認できる。

 

なお「創られた伝統」についてはこちらから無料で1冊まるごとダウンロードできるのでぜひどうぞ。

http://psi424.cankaya.edu.tr/uploads/files/Hobsbawm_and_Ranger_eds_The_Invention_of_Tradition.pdf

 

http://staff.washington.edu/ellingsn/Hobsbawm_Inventing_Traditiions.pdf

 

また西洋史研究者の近藤和彦氏による簡潔なまとめはこちら。

Invention of Tradition  (日本語)

 

明治維新以降の租税収入内訳

f:id:x4090x:20180107230734j:plain

f:id:x4090x:20180107230757j:plain

三和良一他編『近現代日本経済史要覧』(2010年、東京大学出版会)21頁、表27より作成

 

1868年度から1875年度まで、政府の租税収入の85パーセントが地租だった。金納とはいえ事実上明治政府の収入は旧幕府と同様「年貢」に頼っていた。明治の最初の10年間は、収入面から見た場合「近代国家」ではなく封建国家だったと言える。

徳川家康による井伊直政、織田信長、豊臣秀吉の人物評価に関する史料を読んでみる

將軍秀忠夫人淺井氏に輿へたる訓誡状(慶長十七年二月二十五日)

徳川義宣『新修徳川家康文書の研究』(1983年、吉川弘文館)439~466頁

 

 

 

(前略)

 一、井伊兵部事、平日言葉少く、何事も人にいはせて承り居,氣重く見へ申候得共、何事も了簡決し候へは、直に申者にて候、取わけ我等何そ了簡違か評議違か,爲にならぬ事は、皆人の居ぬ所にて物和らかに善悪申者にて候、それ故、後には何事も先、内相談いたし候樣に成申候、

 

  (中略)

 

一,堪忍の事、身を守るの第一に候、何事の藝術も、堪忍なくては致し覺へ候事もならぬものにて候,殊に一國を治めんと存候身は、一入心懸可申事に候、(中略)日本にては堪忍十全之者は、楠正成一人にて候、初より一向堪忍の氣なしと言葉にも出し行ひしは、近世武田勝頼にて候,夫故一生行ひ道に叶はす,先祖ょり數代の家を失ひ身を果し候、一織田殿は近世の名將にて、人をもよくつかひ大氣にて知勇もすくれし人にて候得共、堪忍七つ八つにて破れ候故、光秀の事も起り申候、太閤樣は古今の大氣知勇、至て堪忍強かリける故、卑賤ょり出,貳十年の中に天下の主にもなられ候程の事に候得共,あまリ大気故、分限の堪忍破れ候、大気ほとよき事はなく候得共、夫も人の身の程を知らす、萬事花麗を好み、過分に知行宛行、其外人に物施すも大氣にてはなく、奢と申ものにて候,知行其外施す品も、其分に當り候こそよく候、(以下略)

 

 

 

 

 

徳川義宣氏によれば「人の一生は重荷を負って云々」は天保年間までは徳川光圀の作と伝えられたが、幕末期に「東照神君台諭」と改変され、明治11年頃から旧旗本が偽書し、「東照宮御遺訓」と称したものだという。この史料が『大日本史料』や中村孝也『徳川家康文書の研究』に収載されなかった事情も、異例の長文であることや「文書」でなく編纂物であること以外にこのあたりにあるのではないかと指摘されている。もとより、この史料に書かれたことがすべて信用できるわけでないとしつつも、歴史学から排除すべき確証がない以上、検討すべきではないかとしている。

 

さて、この史料によれば家康の、井伊直政武田勝頼織田信長豊臣秀吉に対する人物評価が垣間見られ、興味深い。「おんな城主 直虎

で描かれた菅田将暉演ずる井伊直政は才気煥発という点で共通するが、寡黙というにはほど遠い。いずれにしろ、直政に対する家康の評価は高く、全幅の信頼を寄せていたことは確かなようだ。

 

「堪忍」を徳川氏は本来の自動詞である「堪え忍ぶ、我慢する、耐える」の意味と理解すべきと指摘する。信長は「大気」つまりおおようで、度量の広い人物だが、堪え忍ぶことがあまり出来なかったので光秀に「討たれるべくして」討たれた。つまり、光秀ではなくとも、安国寺恵瓊が予言したとおり、織田政権の基盤は案外脆弱だった、と家康は考えていた、というのはうがち過ぎであろうか。秀吉は分不相応に散在し、驕りがましき人物だったので権力の継承がうまくいかなかった。武田勝頼についてはずいぶんな言い方をしている。何か含むところがあったのだろうか。

文禄4年9月29日石田三成奉行板原彦右衛門・井口清右衛門宛年寄・行事証文を読んでみる

東京大学史料編纂所大日本史料総合データベース」で検索したところ興味深いものを見つけた。まだ刊行されていないので読んでみた。

 

文禄4929石田三成奉行板原彦右衛門・井口清右衛門宛年寄・行事証文

大仏橋通万寿寺中今度御(十二人)せいはい人之諸道具并くわんはく様御手かけ衆のあつけ物当町ニ一切無御座候、若隠置候ハヽ重而可被成御成敗候、如件、

  文禄四年             年寄(印)

    九月廿九日

                   行事(印)

  石田治部少輔様

      御奉行

     板原彦右衛門殿

     井口清右衛門殿

 

御尋被成候民部卿法印、以来之きつてとり申ものハ於当町ハ一人も無御座候、若かくしをき候ハヽ一町御セいはい被成、仍為其状如件、

   文禄四年            重左衛門(花押)

      九月廿九日        又衛門(花押)

                   与三(花押)

   石田治部少輔様

        御奉行

     板原彦右衛門殿

     井口清右衛門殿

 

(書き下し文)

大仏橋通万寿寺中このたび御(十二人)成敗人の諸道具ならびに関白様御手懸け衆の預け物、当町に一切御座なく候、もし隠し置き候はば、かさねて御成敗ならるべく候、くだんのごとし

  文禄四年             年寄(印)

    九月廿九日

                   行事(印)

  石田治部少輔様

      御奉行

     板原彦右衛門殿

     井口清右衛門殿

 

お尋ねなられ候民部卿法印以来の切手取り申す者は、当町においては一人も御座なく候、もし隠し置き候はば、一町御成敗成られ、よってそのため状くだんのごとし、

 

(大意)

大仏橋通、万寿寺の、このたび成敗された(十二)人の諸道具、および関白豊臣秀次様の側室の方々から管理を任されている物、当町には一切ございません。もし隠した場合は、今度こそ御処罰ください。

 

(中略)

お尋ねの件ですが、前田玄以様が京都奉行/京都所司代の御支配になってから(側室方から)預かっている者は、当町には一人もおりません。もし隠していた場合は、我々全員町ごと御成敗下さい。そのための証拠はこの通りでございます。

 

万寿寺京都市上京区

*くわんはく様:関白豊臣秀次

*御手かけ衆:「御手懸け」は「めかけ」の意。「御手懸け衆」で側室たち。

民部卿法印:前田玄以

*きつて:「切手」もともとは「切符」(きつぷ/きりふ)と「手形」を合わせた語で,証券,証書などの意。「日葡辞書」に「Qitte 何か物などの引渡しを命ずる証拠の紙,または書付」とある。

 

 

    

この史料は「太政官」と印刷された罫紙に書写されたものでただし書きと原文の違いがやや判然としないが、「楓軒文書纂所收諸家文書」から収載されたとある。

 

関白秀次が切腹させられたのち、側室の「預け物」という貸借関係が「町」との間にあったかを調べていたことを示している。石田三成の家臣と思われる板原、井口両名が実務にあたり、「町」という自治組織に誓約させている。その「町」の代表者が「年寄」「行事」であろう*。貸借関係すら連座の対象とする三成の徹底さと同時に「町」という自治組織を介してのいわば「町請」制度が成立していることを読み取ることができるだろう。

*ちなみに「年寄」は敬意を込めた呼称で、今日では相撲の「年寄」にのみそのニュアンスが残されている。「老」という字はもともと「おいぼれた」というネガティブな意味と「経験を積んでいる、すぐれている」というポジティブな意味をもつアンビバレントな言葉だったようだが、現代では多くの場合前者の意味で使われることが多いようだ。

ネコの喧嘩を仲裁する小僧の図

太田記念美術館で2017年人気があったネコに関する浮世絵。

 

 

 

https://pbs.twimg.com/media/DSWNEg_UQAAXhcm.jpg

 

 

真ん中の人物が「猫ずきな小僧」*で、見切れている人物には「ぽんとした小僧」とある。「ぽんとした」とは「ぼーっとした」という意味なので興味深いが、残念である。

 

*「な」は「奈」のくずし字で現代でも「うなぎや」の「な」として現役である。

 

「教訓善悪小僧揃」というタイトルがつけられているように、様々な小僧を集めて描いたものらしい。