日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正年間 井伊萬千代は家康から2万石を宛行われたか

「おんな城主直虎」47回にて井伊萬千代は2万石を宛行われたとされた。

 

しかし、同時期の家康発給の宛行状を見ると石高記載は見られない。中村孝也『徳川家康文書の研究 上巻』267頁(1958年、日本学術振興会)から引用してみよう。

 

ところで、このブログの目的はドラマ自体にケチをつけるところにあるのではなく、それをヒントに史料を読むことにある。ドラマは大河ドラマとはいってもフィクションであることに変わりはない。かつて「おしん」という朝の連続テレビ小説が人気を博していたころ、主人公のあまりのひもじさに同情した人々がNHKあてに現金書留や米を大量に送りつけたという話があった。

 

いつの時代もフィクションと現実の区別をつけられない人は一定数いるのだろう。大河ドラマの最大の欠点は「基本的にフィクションです」という断りを入れないところにあると個人的には考えている。

 

就今度忠節之儀、中郡領三ヶ一并西手之内雲名村、殊あひ月之郷、只今取来候間、聊相違有間敷候也、於信州遠山領にて、千貫文出置候、此内百貫文とは(者カ)つ田虎介・和泉・二兵衛、付夫之儀候間、彼三人ニ出置候、右永相違有間敷者也、仍如件、

  天正九之

    五月九日            家康御判

      奥山惣十郎殿

 

(書き出し文)

このたび忠節の儀について、中郡領三が一ならび西手のうち雲名村、殊あひ月の郷、ただいま取り来たり候あいだ、いささかも相違あるまじく候なり、信州において遠山領にて、千貫文出し置き候、このうち百貫文は津田虎介・和泉・二兵衛、付たり夫の儀候あいだ、かの三人に出し置き候、右ながく相違あるまじきものなり、よってくだんのごとし、

 

 

*中郡領三ヶ一:「なかごおり」、戦国末期から江戸時代に使用された広域呼称で九筋二領の一つ。巨摩郡山梨郡八代郡にまたがり、駿州往還によって駿河国と甲斐を結んだ地域。「三ヶ一」はその中郡の3分の1という意。

*西手:西手領

*雲名村:遠江国。現在の浜松市天竜区

*あひ月の郷:不明

*遠山領:遠山川流域。遠山川は天竜川に合流する。

*津田虎介・和泉・二兵衛:いずれも不明

*奥山惣十郎:井伊谷の近く奥山村を本貫とする奥山氏の一族と思われるが不明。

 

 

この文書に出てくる地名はいずれも水運と関係するので、奥山惣十郎は交通に権限を持つ土豪かも知れない。

 

それより問題なのは知行宛行が石高でなく貫高制であることだ。天正17年諸郷村への七ヶ条においても貫高が中心で、石高と直結するのはわずかに「陣夫は弐百俵ニ一疋壱人充可出之」の部分だけである。

 

したがって、徳川家康の家臣が石高で知行宛行を行われることは考えにくい。