(端裏書)
「長浜御入之時の触状」*1
定
一、在々所々作職*2之事、去年作毛之年貢納所候ともから、可相抱*3事、
一、最前上使*6出し候時、さし出しの上、ふみ*7かくし候といふ共、只今罷出、有様申におゐてハ、其とか*8をゆるすべき事、
一、在々所々つゝみ*9の事、堤下の物者申におよばず、隣郷の百姓も罷出、普請すべき事、
一、在々所々ふみかくし、並こたへさけ*10あるに付て、来廿五日糺明として、直可罷出候、其以前にさし出しあり様に仕を可相待候、もし無沙汰のともからあらば、となり七軒可成敗者也、仍申触所如件、
天正弐年
三月十九日 藤吉郎
(宛所を欠く)
「一、83号、29頁」(「雨森文書」『改訂近江国坂田郡志』)
(書き下し文)
「長浜御入りのときの触状」
定
一、在々所々作職のこと、去年作毛の年貢納所候ともがら、あい抱うべきこと、
一、あれふの土地、当年開き候百姓、末代あい抱うべきこと、
一、最前上使出し候時、指出の上、踏み隠し候といふとも、ただいま罷り出で、有り様申においては、その科を許すべきごと、
一、在々所々堤普請のこと、土手下の者は申すに及ばず、隣郷の百姓も罷り出で、普請すべきこと、
一、在々所々踏み隠し、ならびに答え避けあるについて、来たる廿五日糺明として、じかに罷り出づべく候、それ以前に指出有り様に仕るをあい待つべく候、もし無沙汰のともがらあらば、となり七軒成敗すべきものなり、よって申し触るところくだんのごとし、
(大意)
「秀吉様が長浜に入城されたときのお触れ」
定
一、在々所々の作職については、昨年収穫し年貢を納めた者のものとする。
一、荒廃した土地を切り開いた百姓は、末代までその家のものとする。
一、以前使者を派遣した際、土地に関する上申において、見積もらなかったとしても、早速に出頭し、ありのままに申し出れば、赦免する。
一、在々所々の「堤」については、「堤下」の者はもちろん、隣郷の百姓も総出で普請に従事すること。
一、在々所々において過少に上申したり、上使の指示に背いた場合、今度の25日に、直接現地におもむくつもりである。その前に正確な指出を申し出るのを待つこととする。もし無沙汰においては隣7軒の連帯責任とする。以上、触れ知らせるところである。
この文書の出典である『改訂近江国坂田郡志』の該当箇所は国会図書館のサイトでもまだ公開されていない。また「日本古文書ユニオンカタログ」の「雨森文書」で検索しても該当文書はヒットしなかった。『中世法制史料集』第5巻、802号文書では『東浅井郡志』巻4を典拠としている。ネット上で検索してみても所在が確かめられず、散逸してしまったことが杞憂であることを願うのみである。いずれにしろ、翻刻されたものでしか確認できないのは悔やまれるところである。
さてなぜこの文書の原本や写真にこだわるかというと、太閤検地の原則がすでにこの段階で一定程度確立しているから、すなわちのちの豊臣政権の萌芽を見いだせるからに他ならない。内容は以下のように要約できよう。
1.「作職」を年貢納入の実績ある者に与えている。
2.開墾地を開発した者の相伝とすることを保証している。
3.丈量のために派遣した上使に田畠を過少に上申していないかを在々所々に問い、正直に申し出れば赦免するという点は、まさに中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)が指摘する、検地奉行と村の指出の摺り合わせであろう。
4.高時川の堤普請について、人夫役を徴発している。これは増水時の被害を未然に防ぐ領主の勧農的役割を果たしていると見ることもできるが、その反面在地の自生的秩序への介入とも解釈しうるだろう。
5.第3条と重複するが、秀吉自身が現地におもむき、秀吉側から見て「不正」と判断された場合、7軒の連帯責任として処罰すると警告/恫喝している。
問題は「作職」の解釈である。辞書的・教科書的説明に従えば「本所・領家職ー名主職ー作職ー下作職」のように分化した権利、つまり作職を持っている者が下作職を持っている者に請作をさせ、そこから納められた地子のうちから本所・領家などへ本年貢を、名主職を持つ者へ加地子を納め、差し引いた分を徳分とする売買可能な「職」のひとつであると。
しかしここではそうした意味ではなく、本来の「耕作する権利」と解するのが妥当であろう。ただし、この文書中に検地帳らしき帳簿の文言は見えない。まだ検地帳登場以前の「作職」保証基準であり、それは年貢納入の実績がある者か、荒蕪地を開墾した者に求めるものであった。