日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正2年3月19日在々所々宛羽柴藤吉郎定写

(端裏書)

「長浜御入之時の触状」*1

    定

一、在々所々作職*2之事、去年作毛之年貢納所候ともから、可相抱*3事、

一、あれふ*4の土地、当年ひらき*5候百姓、末代可相抱事、

一、最前上使*6出し候時、さし出しの上、ふみ*7かくし候といふ共、只今罷出、有様申におゐてハ、其とか*8をゆるすべき事、

一、在々所々つゝみ*9の事、堤下の物者申におよばず、隣郷の百姓も罷出、普請すべき事、

一、在々所々ふみかくし、並こたへさけ*10あるに付て、来廿五日糺明として、直可罷出候、其以前にさし出しあり様に仕を可相待候、もし無沙汰のともからあらば、となり七軒可成敗者也、仍申触所如件、

  天正弐年

   三月十九日         藤吉郎

    (宛所を欠く)

          「一、83号、29頁」(「雨森文書」『改訂近江国坂田郡志』)

(書き下し文)

「長浜御入りのときの触状」

    定

一、在々所々作職のこと、去年作毛の年貢納所候ともがら、あい抱うべきこと、

一、あれふの土地、当年開き候百姓、末代あい抱うべきこと、

一、最前上使出し候時、指出の上、踏み隠し候といふとも、ただいま罷り出で、有り様申においては、その科を許すべきごと、

一、在々所々堤普請のこと、土手下の者は申すに及ばず、隣郷の百姓も罷り出で、普請すべきこと、

一、在々所々踏み隠し、ならびに答え避けあるについて、来たる廿五日糺明として、じかに罷り出づべく候、それ以前に指出有り様に仕るをあい待つべく候、もし無沙汰のともがらあらば、となり七軒成敗すべきものなり、よって申し触るところくだんのごとし、

(大意)

「秀吉様が長浜に入城されたときのお触れ」

    定

一、在々所々の作職については、昨年収穫し年貢を納めた者のものとする。

一、荒廃した土地を切り開いた百姓は、末代までその家のものとする。

一、以前使者を派遣した際、土地に関する上申において、見積もらなかったとしても、早速に出頭し、ありのままに申し出れば、赦免する。

一、在々所々の「堤」については、「堤下」の者はもちろん、隣郷の百姓も総出で普請に従事すること。

一、在々所々において過少に上申したり、上使の指示に背いた場合、今度の25日に、直接現地におもむくつもりである。その前に正確な指出を申し出るのを待つこととする。もし無沙汰においては隣7軒の連帯責任とする。以上、触れ知らせるところである。

 

 Fig. 近江国坂田郡雨森村周辺図

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                   「日本歴史地名大系」滋賀県より作成

 

この文書の出典である『改訂近江国坂田郡志』の該当箇所は国会図書館のサイトでもまだ公開されていない。また「日本古文書ユニオンカタログ」の「雨森文書」で検索しても該当文書はヒットしなかった。『中世法制史料集』第5巻、802号文書では『東浅井郡志』巻4を典拠としている。ネット上で検索してみても所在が確かめられず、散逸してしまったことが杞憂であることを願うのみである。いずれにしろ、翻刻されたものでしか確認できないのは悔やまれるところである。

 

さてなぜこの文書の原本や写真にこだわるかというと、太閤検地の原則がすでにこの段階で一定程度確立しているから、すなわちのちの豊臣政権の萌芽を見いだせるからに他ならない。内容は以下のように要約できよう。

 

1.「作職」を年貢納入の実績ある者に与えている。

 

2.開墾地を開発した者の相伝とすることを保証している。

 

3.丈量のために派遣した上使に田畠を過少に上申していないかを在々所々に問い、正直に申し出れば赦免するという点は、まさに中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)が指摘する、検地奉行と村の指出の摺り合わせであろう。

 

4.高時川の堤普請について、人夫役を徴発している。これは増水時の被害を未然に防ぐ領主の勧農的役割を果たしていると見ることもできるが、その反面在地の自生的秩序への介入とも解釈しうるだろう。

 

5.第3条と重複するが、秀吉自身が現地におもむき、秀吉側から見て「不正」と判断された場合、7軒の連帯責任として処罰すると警告/恫喝している。

 

問題は「作職」の解釈である。辞書的・教科書的説明に従えば「本所・領家職ー名主職ー作職ー下作職」のように分化した権利、つまり作職を持っている者が下作職を持っている者に請作をさせ、そこから納められた地子のうちから本所・領家などへ本年貢を、名主職を持つ者へ加地子を納め、差し引いた分を徳分とする売買可能な「職」のひとつであると。

 

しかしここではそうした意味ではなく、本来の「耕作する権利」と解するのが妥当であろう。ただし、この文書中に検地帳らしき帳簿の文言は見えない。まだ検地帳登場以前の「作職」保証基準であり、それは年貢納入の実績がある者か、荒蕪地を開墾した者に求めるものであった。

 

*1:端裏書は『大日本史料』第10編21冊、天正2年3月19日条から補った

*2:本文参照

*3:所有する、支配するの意

*4:「荒蕪」(コウブ)の湯桶読みか。『中世法制史料集』では「荒不」とするが「コウフ」と読み、耕作できず、年貢公事などが免除された土地という意味になる

*5:開、開墾する

*6:「在々所々」へ派遣された使者

*7:「踏む」は見積もる、調査するの意

*8:

*9:堤、土手または用水池の意、ここでは高時川の堤普請のことか

*10:「避ける」は逃れる、背くの意

天正元年8月11日古橋郷名主百姓中宛羽柴秀吉判物

各、早々令還住*1尤候、下々猥之族*2一切令停止候也、

                 羽柴藤吉郎

  八月十一日*3            秀吉(花押)

ふるはし郷*4

  名主百姓中

                       「一、60号、22頁」

(書き下し文)

おのおの、早々還住せしめもっともに候、下々みだりのやから一切停止せしめ候なり、

(大意)

古橋郷の名主百姓の者たち、早々に還住したこと実に感心である。軍勢の者たちによる乱妨狼藉は一切停止する。 

 

天正元年8月10日織田信長浅井久政・長政の本拠地小谷城を攻撃する。同27日両名は自刃するがそのさなかに古橋郷の名主百姓が帰村したことを顕彰する文書である。

 

ちなみに太閤検地論でこの「名主百姓」が「下人・名子・被官」を抱える家父長的奴隷主であり、「政治的には被支配身分だが、経済的には支配階級」と位置づけたのが安良城盛昭であった。

 

 

Fig. 近江国浅井郡古橋郷周辺図 

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                   「日本歴史地名大系」滋賀県より作成

 

 

*1:戦乱を避けて逃散していたが、早々に帰村した

*2:秀吉軍勢による乱妨狼藉

*3:天正元年

*4:近江国浅井郡古橋郷

元亀2年11月25日賀茂郷銭主方并惣中宛木下秀吉書状写

態以折紙令申候、仍賀茂郷*1徳政免除之儀付而、去年(闕字)御下知朱印*2被遣候処、一揆中恣申掠候哉、重今度(闕字)御下知被遣之由候、如何之儀候哉、我等朱印申次候間、断*3御理*4可申上覚悟*5候、一揆等令在岐阜、種々雖申上候、信長無許容候、右之儀、上中*6・才阿*7へも申候、当郷之儀不混于他*8候条、徳政之事棄破之朱印被遣之候、然上者永代預状*9等弥以不可有別儀候、恐々謹言、

                    木下藤吉郎

   十一月廿五日*10            秀吉(花押影)

 賀茂郷

   銭主方并

   惣中

                               「一、44号、16頁」

(書き下し文)

わざわざ折紙をもって申しせしめ候、よって賀茂郷徳政免除の儀について去年御下知朱印遣わされ候ところ、一揆中ほしいままに申し掠め候や、かさねて今度御下知遣わさるのよし候、いかがの儀候や、我等朱印申し次ぎ候あいだ、断じておことわり申し上ぐべき覚悟に候、一揆など岐阜にあらしめ、種々申し上げ候といえども、信長許容なく候、右の儀、上中・才阿へも申し候、当郷の儀他に混ぜず候条、徳政のこと棄破の朱印これを遣わされ候、しかるうえは永代預状などいよいよもって別儀あるべからず候、恐々謹言、

(大意)

 折紙をもって申し入れます。賀茂郷徳政免除の件について、昨年信長様の下知が朱印状によって申し渡されたところ、徳政を幕府に強要した一揆勢が好き放題に借用関係を破棄しているためか、ふたたびまた下知が下されるとのこと。どのようなことになっているのか、われらは信長様の朱印状をたんに申し伝えるだけなので、必ず侘言を申し上げる心づもりでいるだろう。一揆勢が岐阜にもあらわれているので、いろいろ弁明したところで信長は許容しない。このことは、上野秀政・才阿弥へも伝えている。賀茂郷の様子は際立っているので、徳政を免除する旨の朱印状が発給される。したがって永代売買の証文など支障がないようにしっかり保管するようにしなさい。

 

本文書は45号の本文と34号(引用書では35号)の写が接合されて、ひとつの文書に仕立てられているので、厳密な解釈には最低でも写真、できれば原物を観察する必要がある。

 

元亀元年の徳政令に対し、信長は特定の郷村に徳政免除を保証する朱印状を発給している。しかし、信長の朱印状の御利益はそれほどのものではなかったようで、徳政を幕府に要求した「一揆中」は借用証文などを破棄していた。そこで再度朱印状が発給され、今度は信長も用捨しないので「御理」=謝罪することになるだろうから、銭主たちに現存する証文をしっかりと管理するよう伝えたものである。

 

46号文書でも「今に難渋の由」とあり、賀茂郷で信長による徳政免除の朱印状が蔑ろにされていることは確認できる。

 

Fig. 山城国愛宕郡賀茂郷周辺図

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「日本歴史地名大系」京都府より作成 「上賀茂社六郷」比定も同書による

 

*1:山城国愛宕郡賀茂郷、上図参照

*2:元亀元年11月日賀茂郷銭主方・社人同惣中宛織田信長朱印状写「奥野、262号、上、432頁」

*3:必ず

*4:謝罪、侘言

*5:心の準備

*6:上野秀政、足利義昭の近習

*7:才阿弥、足利義昭の奉公衆。年月日未詳「大徳寺領大宮地子銭之事」(「大徳寺文書之一」620号、633頁)に「一、中嶋与兵衛尉奉公衆ニ被召加之由申掠、地子銭五六年分未進仕候、然処以才阿弥聴上意候処、曲事之由被仰出」とあり、足利義昭に直接「上意」を仰ぐ立場にあったことがわかる。「言継卿記補遺三」天正4年1月15日条にも「才阿弥等祗候、音曲有之、御酒及大飲、次禁中徘徊、次帰宅了」と見える。さらに「奥野、181号」にも見える

*8:「自余に混ぜず」と同様「きわだった」「並々でない」の意

*9:所領・金銭などを預けたとき、預かり主が預け主に差し出す文書。中世後期には利子付きの借用書が徳政によって破棄されたため、実質的に利子付きの契約を結びながら、形式上無利息の預状が作成された。ここでは「永代」とあるので永代売買の請取状を意味する。なお上島有氏は「あずかりじょう」と「あずけじょう」を区別している。「大日本百科全書」当該項目参照

*10:元亀2年

夏の読書感想文(下)中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)の歴史的意義

はじめに

本書が2019年水準での太閤検地論であることは、第一章「天正八年播磨・但馬検地」(19頁)に3月に報道された、未発見の秀吉家臣の名前が記された検地帳の考察から明らかである。

www.kobe-np.co.jp

 

「おわりに」によれば、2018年に刊行する予定だったとあるが、本年刊行となったことは偶然とはいえ、読者にとって幸運であった。この「おわりに」が6月の初校段階で書かれたことを考えれば、この未発見史料に言及するのは日程上かなりきびしかったはずである。著者の矜持と学問的良心に感動を覚えずにはいられない。

 1.本書の研究史理解

終章で安良城が論文をおおやけにした頃の時代背景に触れられており、生産関係や経営体が主眼とされたとある(安良城に従えばウクラード*1)。しかし、村が後景に退いてしまったことについてやや説明不足の感は否めない。というのも、当時村落共同体がネガティブに捉えられていたことと無縁ではないからである。現在でも仲間うちだけが優遇される集団を「○○ムラ」と呼ぶことがあり、あるいは横溝正史の小説で描かれる地縁や血縁によって個人の行動が大きく制約を受けていた世界を想起すれば共同体が後景に退いてしまうのも当然といえる。大塚久雄『共同体の基礎理論』の初版が公刊されたのも1955年であり、資本主義社会成立に共同体の解体が不可欠であるという認識は広く受け入れられていた。村落調査といえばもっぱら農村社会学の独擅場だったことも影響していたのかもしれない。村請制が重視されるようになったのはようやく1970年代に入ってからである。そして村請制が機能しうるのは村に一定の「自律性」が存在したから(水本邦彦など)、あるいは「百姓という身分を与えるのは村(身分集団)である」(朝尾直弘)といった、双方向のせめぎ合いをそこに見出すようになった。これには水林彪のように行政的下請団体(ライトゥルギー的強制団体)だとする反論も見られたが、国家/領主と百姓のあいだに中間団体が介在していたという点では意見の一致が見られる。安良城理論は、それを支持するしないにかかわらず、誰しもが口を揃えて論旨が明解であると認めるところであるが、歴史学の論文も歴史的所産であることを免れ得ない。本書はその点安良城にややきびしい。

 2.本書の論点

 本書の目的は、「具体的な政治過程のなかに個々の検地を位置づける手法を通して」(11頁)、これまでの社会経済史的、土地制度史的アプローチにとどまらず、国家史的・国制史的に太閤検地を位置づけようとするところに置かれている。検地の施行方針が試行錯誤的であり、かつ在地社会とある種契約的関係あるいは緊張関係をはらんだ中で実現したもので、天皇を頂点とする国家秩序を成立させるための「国土」把握であるとしている。すなわち、全国統一の基準による石高の総計が「御前帳」と「郡単位の絵図」として天正19年後半に調えられ、天皇に献上するかたちで、国内統一がなったとする。村の「指出」から検地奉行による丈量、その結果と村側との調整、それをもとに「郡」そして「国」別の石高が「御前帳」に結実する検地帳類の具体的な作成過程と、それが天皇を頂点とする「国家」的再編をもたらしたというシェーマ*2は魅力的ですらある。太閤検地論争では「主役」扱いだった名請人の実態把握はあくまで副次的で、在地社会の自律性に一定程度委ねる、領主側にとっても合理的な支配政策であったことが繰り返し強調される。その在地社会の秩序の安定化のために、境界、とくに「郡」の境界画定により紛争の種を刈り取ることも検地の主眼であった。しかし、在地社会の自力救済原則、自検断が秀吉の検地政策によって完全に否定されたわけでないことは、慶長14年2月2日徳川秀忠黒印状写「覚」に「一、郷中ニて百姓等山問答・水問答に付、弓・鑓・鉄炮にて互致喧嘩候者あらハ、其一郷可致成敗事」(児玉幸多編『近世農政史料集一』3号文書、4頁)とあることから明らかである。「山問答」は山の入会権や境界紛争、「水問答」は水争いであり、「喧嘩」は「弓・鑓・鉄炮」を持ち出す合戦を意味する。刀狩りの実効性を疑わせる文言だが、それは措くとしても、著者も繰り返し述べているように、秀吉の思惑と在地の利害が交わることはついになかった。

検地の施行原則については、文禄3年検地においても、「1反=250歩」という百姓側に過酷な単位にしてみたり、逆に「1間=6尺5寸」と基準を緩めたりしており「検地という政権の基本政策に「完成」型はない」(206頁)と主張する。こうした指摘は安良城のいう一貫した「政策基調」は論理的にも歴史的にもありえなかったという批判となるであろう。

 

村側の「指出」と領主側とのあいだで検地結果の摺り合わせが行われたとの指摘は、速水融の「領主の検地帳と村の検地帳」(『社会経済史学』22巻2号、1956年)の問題意識を連想させる。

 3.史料解釈に関する疑問

本書は太閤検地論争で取り上げられた、よく知られた史料の再解釈を丹念に行うことで、信長家臣時代から晩年に至るまでの検地の具体的様相、とりわけその試行錯誤性をあきらかにすることに成功している。

ただ、気になるところもある。天正11年7月近江国今堀惣中掟目条々写(後掲宮川史料集203号、436頁)の「検地之水帳付候物(ママ)、相さは(「く」脱カ)へき事」の「捌く/裁く」を「複雑に入り組んだ事柄や、面倒なことを整理する」(28頁)として、耕作・経営との解釈を斥ける。しかし『邦訳日葡辞書』には「Sabaqui、qu、aita サバキ、ク、イタ:家の事などを、世話し、処理する」(544頁、下線部引用者)とあり、用例として「イエ、チギョウ、ナンドヲサバク:家や所領などの世話をし、管理する」が挙げられており、「さばく」に限定すれば家政=経営の「より上位の権限」とする解釈は読者にはやや唐突に感じられる。この文書の作成主体「今堀惣中」と名請人の関係が検地以前以後でどう変化し、どう変わらなかったのか踏み込んだ解釈を示して欲しかったが、太閤検地論であり、新書という媒体の性格上無い物ねだりの妄言であることはいうまでもない。

 4.史料の引用について

「おわりに」で「当初は検地、特に太閤検地に関わる重要史料を解説する史料論的なものを考えていたが、『新書』という性格に鑑みてそれもいかがかと断念し、結果として政権の遂行した『太閤検地』を段階的・通時的にみていくというかたちに落ち着いた」(265頁)と本書の執筆方針に逡巡があったことを告白している。後半部の意味において本書は所期の目的を達成したといえる。しかし、前半部については止むを得ないとしても極めて残念でならない。大半の史料の出典については確認できたものの、追跡しきれなかったものもあり、後ろ髪を引かれるような未練を禁じ得ない。もちろん、行論中で紹介された史料の充実度は高く、太閤検地および日本近世史の代表的入門書となることは疑いようもない。

 

現在『豊臣秀吉文書集』が刊行中(文禄元年まで)であり、8月中旬に報道された「堅田文書」など豊臣政権に関わる新史料発見もあることから蛇足ながら太閤検地研究が、いや歴史学研究すべてがその性質上つねに発展途上にあることを強調して、拙い読書感想文を終えることとする。

 

(引用史料についてのメモ、未定稿)

 本書で引用された史料はおなじみのものであり、『大日本古文書 浅野家文書』『滋賀県史第5巻』(ともに国会図書館のサイトからDL可能)、宮川満『太閤検地論第3部 基本史料とその解説』、『日本思想大系22中世政治社会思想(下)』などは公立図書館でも比較的閲覧しやすい。

 

以下、史料の出典について思いつくままに記しておく。

28頁:天正11年7月「近江国今堀惣中掟目条々写」(『太閤検地論第3部』203号、436頁)

128頁:天正19年閏1月13日『新修彦根市史』第5巻、821号、743頁

128頁:天正19年3月11日『新修彦根市史』第5巻、823号、753頁

128頁:『滋賀県史』第5巻、446号、371頁

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130頁:中野『石田三成伝』134~135頁所収(吉川弘文館、2017年)。また、写として紹介されているのは、たつの市立龍野歴史歴史文化資料館『脇坂家文書集成』50号、52頁。

204頁:「かりそめのひとりごと」『和泉市史第2巻』1594号、331~333頁

*1:уклад

*2:Schema、最近は英語の「スキーム」schemeと呼ぶらしい

夏の読書感想文(上) 中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)の歴史的前提

中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)が安良城盛昭の太閤検地論を意識していることは、本文からはもちろん、安良城が根拠とした史料をひとつひとつ解釈しなおしている点、そして終章のタイトル「太閤検地の歴史的意義」から明らかである。

 

安良城に限らず、いわゆる戦後歴史学の論文で「止揚する」というタームはしばしば好んで使われるが、本書は文字通り2019年時点において太閤検地論争を止揚*1すべく書かれたものと推測する。

 

こうした点から、安良城の太閤検地論(通称安良城理論)の位置づけを振り返ってみるのも、ノスタルジックであるが、無駄ではなかろう。

 

1953年安良城は東京大学経済学部に提出した卒業論文太閤検地の歴史的意義」を『歴史学研究』誌上に「太閤検地の歴史的前提1、2」、「太閤検地の歴史的意義」として発表した。安良城は中世荘園制社会を「家父長的奴隷制社会」であるとし、太閤検地によって「封建革命」(のちに自身により「封建革命」概念を撤回)が起こされ、検地帳に記載された名請人の排他的所持権を保証し、彼ら小農を基盤とする近世幕藩制社会こそ「農奴制=封建制社会」であると主張した。荘園制下で名主職・作職・下作職など一筆の土地への権利関係が複雑に分化していたのを、「一地一作人」とする政策基調太閤検地に一貫してみられた、というのが安良城の立論である。つまり、日本の「中世荘園制社会」は「世界史的」には「古代社会」であるとしたのである。この問題提起は日本史のみならず日本の外国史研究者にも大きな影響を与えた。なぜなら歴史学に不可欠の時代区分が見直さざるを得なくなったためである。そして、この安良城の封建革命説に対し、名寄帳との比較などから相対的革新説、絶対主義成立説、封建的反動説、あるいは役屋体制論などが唱えられ太閤検地論争へと突入していく。個々の論点は本書との対比で述べるが、本文中でしばしば名請人の規定について言及しているのも安良城説、あるいは太閤検地論争を意識しているからであろう。

 

ちなみにこの論争に、のちに歴史人口学を切り開くことになる速水融も加わっていた(当時の論文は『近世初期の検地と農民』知泉書館、2009年所収。なお巻末の参考文献欄では「知泉書院」とされている)。

 

この安良城理論の中核をなす「小農自立」説は近世史研究者には受け入れられているが、中世史ではあまり評判がよくないとも聞く。

 

さてここまで述べてみたが、本ブログがかなり手垢にまみれた古臭い概念を多用したことは否定しようもない。本書も米が「使用価値という点でも交換価値という意味でも、全国的に通用する統一的なメジャー」(下線部引用者、9頁)となる貨幣であったと述べているが、下線部は明らかに価値形態論にもとづく記述であり、戸惑うことも少なからずある。しかしながら、そのことは本書の価値をいささかなりとも毀損するものではない。むしろ安良城盛昭という巨人と対話を試みているようにさえ感じられる、とてもエキサイティングな著作である。

 

次回、本書の主張と安良城のそれとを対比することで夏の読書感想文を完成させることとする。最後にカタカナ語を使わせていただくと、一般読者向けの歴史書としては史料の解釈が丁寧で、複数の解釈が可能な場合にもそれぞれに言及しており、俗流「歴史」書への強烈なアンチテーゼとなることは論を俟たない。

*1:アウフヘーベン(aufheben)