日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「人国記」より「備後国国民性」を読む

 

あるCMが頭から離れない。広島県東部にあたる国名を連呼するあれだ。その地域の方も使うのだろうか。駅名は落合、庄原、西条、赤坂など多数あるので混同しないのだろうか。疑問は尽きない。

 

備後の国の風俗は、人の気実儀*1にして、一度約をしたる事は変改すること鮮(すくな)し。然れども愚癡*2なること多き故、不実なる事をも弁(わきま)へずして請け合ひ、終に悪名*3を取ること多かるべきなり。大体は西備中の風俗なり。武士の風儀もかくの如し。

        浅野建二校訂『人国記・新人国記』岩波文庫、75~76頁

 

備後の住民は誠意のある人が多く、一度約束したらそれを違えることは少ないと持ち上げる一方で、愚かで実現できるかどうかあやしいことも安請け合いをし、結局評判を悪くする、と述べている。

 

毀誉褒貶は時代を問わないということなのだろう。

*1:まごころや誠意のあること

*2:ぐち、愚かで物の理非のわからないこと

*3:悪い評判

天文15年9月三条御蔵町宛細川国慶禁制を読む??????

www.sankei.com

 

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   禁制     三条御蔵町
一、当年軍勢乱妨狼藉事
一、剪採竹木事
一、相懸矢銭兵糧米事
右堅令停止訖若於違犯輩者
可処厳科者也仍下知*1如件
  天文十五年九月 日
       玄蕃頭源(花押)

 

 

(書き下し文)

 

    禁制     三条御蔵町
ひとつ、当年軍勢乱妨・狼藉のこと
ひとつ、竹木剪り採ること
ひとつ、矢銭・兵糧米をあい懸けること
右堅く停止せしめおわんぬ、もし違犯の輩においては厳科に処すべきものなり、よって下知くだんのごとし、

 

(大意)

 

    禁制    三条御蔵町あて

ひとつ、今年われわれの軍勢が乱妨・狼藉をはたらくこと。

ひとつ、竹や木を伐り取ること。

ひとつ、矢銭や兵糧米と称して課役すること。

右の行為はきびしく禁止したところである。もし背く者がいたならばきびしく罰するものとする。以上下知の通りである。

 

 

 

東寺百合文書などの書状では「玄蕃頭国慶(花押)」といったスタイルをとるが、禁制では「玄蕃頭源(花押)」と使い分けている。

 

*1:命令

「人国記」より「石見国国民性」を読む

   石見国

 石見の国の風俗は、丹後の国に異ならずして、偽りばかりにて実ある人稀なりと知るべし。これも隼・鷹は吉(よ)し*1人の風俗、曾(かつ)て*2好むべからざるなり実ある人は千人に一人も稀なり。智ある人は日々夜々に悪心を挟(さしはさ)み、言語道断と知るべし。

           浅野建二校注『人国記・新人国記』岩波文庫、69頁

 

石見国の人は、丹後と同様に中身のない人間ばかりだと思え、といい、その風俗はまったく望ましいものでないという。中身のある人間は1000人に1人もいないとする*3

 

「人国記」とは畢竟、偏見に満ちた毀誉褒貶の書で日本地誌の書とは言いがたい。

 

 

*1:鷹狩りに使われる隼・鷹が多く棲息するが、人は駄目でも、隼・鷹はすぐれているの意

*2:「まったく~ない」の意

*3:丹後では「丹後の国の風俗、上下・男女ともに千人・万人の内に過ぎて一人も好き人稀なり」(64頁)とさらにその確率は十分の一下がる

武田信玄の愛読書「人国記」より「播磨国国民性」を読む

    播磨

 当国の風俗は、智恵ありて義理を知らず。親は子を誑(だま)し、子は親を欺き、主は被官に領地を少なく出だして、好き人を掘り出し度とこころざし、被官も亦忠勤を二段にして、調儀を以て、所知を得ることを計るこれ偏に盗賊の振廻(ふるまい)、侍は中々是非に及ばざる風義*1なりとぞ。

 按ずるに、当国は南に江海を受け、山を負ひて、上々の風土なり。寒暑温和にして、万事富有の国なり。民俗本書に説く所のごとくなるは、風土の順気*2を受くるといへども、憂患に生きて、安楽に死するの道理*3にて、その心に躰忍する事なき故なり。実に古昔の武士にも、赤松党が如き、皆利心より出でて、本書のいはゆる是非に及ばざると云ふ者なるべし。

          『人国記・新人国記』岩波文庫版、215頁

 

ひどい言われようである。親子、主従ともに互いを騙しあう、盗賊のような国民であるとする。その理由は山と海に挟まれ、温和な気候で、豊かな国であるから、と考察する。最終的には「是非に及ばざる風儀」、つまり「救いようのない風潮」であると断じている。

 

このようなものを武田信玄が愛読していたと伝えられているが、甲斐国も「頑固で物わかりの悪い」、「その善一にその悪十なり」、つまり長所の10倍短所があると悪し様に書かれている。

 

*1:風潮

*2:順当な気候

*3:孟子」に見える語。心配なときは自らを律するから、その命を全うできるが、安楽の時はかえって、その心がけを怠るから、死を招くという意

天正18年7月19日小貫頼久宛嶋清興書状(部分)を読む???

 旧聞に属するが、嶋左近の書状を読んでみたい。

 

www.shikoku-np.co.jp

 

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(折紙)

(折封ウハ書)

「小大蔵*1殿 御陣所」

 

(前略)

申候て見可申と被申候を

先可被仰出是も御分

前次第□(候)先々家中へハ

用意之儀急度被申越

候て可然と申候よし然者更ニ

昨夕御触以後夜中

より其まゝ被申越との

よし召使被進之候共

御存分被仰聞候て可被成

御尤候恐々謹言

 七月十九□(日)     清興

 

(書き下し文)

申し候て、見申すべくと申され候をまず仰せ出ださるべくこれも御分前次第候、先々家中へは用意の儀急度申し越され候てしかるべきと申し候よし、しからばさらに昨夕御触以後夜中よりそのまま申し越さるとのよし、召使これを進められ候とも、御存分仰せ聞けられ候て成らるべく、ごもっともに候、恐々謹言、

 

 

 

意味はさっぱり分からない。

*1:小貫大蔵丞頼久