日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年羽柴秀長、検地施行時「不正」をはたらいた大和国庄屋衆37人に牢舎を命じる

 

一、去年検知*1ニ礼*2ヲ仕タル曲事トテ、国中庄屋衆卅七人籠者*3了ト、

                  天正15年8月2日『多聞院日記』

 

(書き下し文)

ひとつ、去年検地に礼をつかまつりたる曲事とて、国中庄屋衆卅七人籠舎しおわんぬ、と、

(大意)

ひとつ、昨年の検地において、検地役人にお目こぼしをして貰うためにまいないを渡した曲事だとして、大和国中の庄屋衆37名が入牢を命じられた、という話だ。

 

伝聞ではあるものの、検地の際に礼銭・礼物などを受け渡しする行為が現実味を帯びていたことがわかる。

 

起請文を提出させるのも頷ける状況だった。

*1:検地

*2:礼銭・礼物

*3:籠舎

年未詳8月23日今井清右衛門尉宛石田三成判物を読む

免相*1之事ハ、嶋左近*2・山田上野・日岡帯刀両三人ニ申付候、右之三人之儀勿論誓詞*3之上可為順路*4候間、任其旨可相納候、三人方へも右之趣申付候也、

 八月廿三日*5  三成(花押)

           今井清右衛門尉殿

             

                      

 

(書き下し文)

免相のことは、嶋左近・山田上野・日岡帯刀両三人に申し付け候、右の三人の儀勿論誓詞のうえ順路たるべく候あいだ、その旨にまかせあい納むべく候、三人方へも右の趣申し付け候なり、

 

 (大意)

年貢のことは、嶋左近、山田上野、日岡帯刀の三名に命じたところである。右三名に起請文を提出させた上で、正しい手順を踏んで行うべきところなので、その手順に従い納めなさい。三人にもその旨言い聞かせたところである。

 

 

近江国伊香郡唐川村の今井清右衛門尉に宛てて発給されたものである。「その旨にまかせあい納むべく候」とあることから、今井清右衛門尉は年貢を「納めるべき」主体であったと解釈される。下代などならば「納めしむべし」という表現になるだろう。起請文の内容も検見などのさいに礼銭・礼物を請け取らない旨誓ったものと思われる。

 

給人地の年貢については給人が決定することなので、この文書は三成蔵入地に発給されたと見るのが妥当だろう。とすれば、この3名は三成の代官をつとめていたことになる。

 

*1:年貢

*2:島清興

*3:起請文

*4:正しい手順

*5:底本では慶長元~三年とする

慶長2年4月20日上八木村百姓中宛石田三成黒印状(田方麦年貢掟)を読む

 

(三成朱印)当なつより、しよこくむぎ年貢、田方三分壱納可申旨、御意*1ニ付而、可納やう、又おさむまじき田畠之免之事、

一、田にむぎまき*2申分ハ、其田/\の麦毛のうへにてミおよび、三分壱きう人*3ニ納をき、すなはち其地下にくら*4に入、あつけおき*5可申事、付升ハ我等判のます也、

一、むぎまかぬ田にハ、いらん*6申分あるまじき事、

一、はたけ・屋しきにハ、たとひ麦まき申候共、いらんあるまじく候事、

右如此安宅三河*7ニ申付候間、もし此外ひぶんなる儀これあらハ、此方へ可申上者也、

  慶長弐年四月廿日 治部少(三成黒印)

   あさい*8郡 上八木村百姓中

 

長浜城歴史博物館石田三成と湖北』54~55頁

 

(書き下し文)

 

当夏より、諸国麦年貢、田方三分の壱納め申すべき旨、御意について、納むべき様、また納むまじき田畠の免のこと、

ひとつ、田に麦蒔き申す分は、その田その田の麦毛の上にて見及び、三分の壱給人に納め置き、すなわちその地下に蔵に入れ、預け置き申すべきこと、付けたり、升は我等判の升なり、

ひとつ、麦蒔かぬ田には、違乱申分あるまじきこと、

ひとつ、畠・屋敷には、たとい麦蒔き申し候とも、違乱あるまじく候こと、

右かくのごとく安宅三河に申し付け候あいだ、もしこの外非分なる儀これあらば、此方へ申し上ぐべきものなり、

 

(大意)

 

この夏より、諸国の麦年貢、田は三分の一納めるべき趣旨の秀吉様の命について、納めるべき方法、また納めるべきでない田畠の年貢のこと。

ひとつ、田に麦を蒔く分は、その田その田の麦の出来具合を見きわめ、三分の一を給人に納め、すなわちその村の蔵に入れ、預けて置くこと。付けたり、升は三成の花押のある升を使いなさい。

ひとつ、麦を蒔いていない田に、麦年貢を課してはいけない。

ひとつ、畠・屋敷には、たとえ麦を蒔いていても、麦年貢を課してはいけない。

右の通り安宅秀安に命じたので、もしこのほかに麦年貢を課すようなことがあったならば、三成まで訴え出なさい。

 

 宛所の村々の位置は以下の通り。

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                  「日本歴史地名大系」滋賀県より作成

 

本文書冒頭の朱印の意味はよくわからない。

 

この麦年貢徴収は二度目の唐入りのための兵糧確保のためとされている。ただ徴収にあたって、給人地は給人の、三成蔵入地は代官の恣意的徴収があったなら、訴え出ることを村に求めている。

 

ただし「すなわちその地下に蔵に入れ、預け置き申すべきこと」とあるように、すぐさま収納するのではなく、村々の蔵にいったん預けておくことを命じているのが特徴的である。

 

 

参考史料

為(闕字)御意*9急度申入候、在々麦年貢事、田方三分壱納所可被申付旨被(闕字)仰出候条、其方知行分遂内検、帳を作可有納所候、右帳面ニ若麦田分隠置候者、御給人*10可為越度旨被(闕字)仰出候条可被入御念候、恐々謹言、
  卯月二日*11          

                   増右
                    長盛(花押)

                   長大

                    正家(花押)

                   石治

                    三成(花押)

                   徳善

                    玄以(花押)

 上坂八右衛門殿*12

          御宿所*13

 

(書き下し文)

御意としてきっと申し入れ候、在々麦年貢のこと、田方三分壱納所申し付けらるべき旨仰せ出だされ候条、その方知行分内検を遂げ、帳を作り納所あるべく候、右帳面にもし麦田分隠し置きそうらわば、御給人越度たるべき旨仰せ出だされ候条御念を入れらるべく候、恐々謹言、

 

 

                         『新修彦根市史第五巻』815頁、57号文書

 

*1:秀吉の命、参考史料参照

*2:麦蒔き

*3:給人、「代官」と書かれている村もある:坂田郡朝妻村・筑摩村・中島村伊香郡落川

*4:

*5:預け置き

*6:違乱

*7:安宅秀安、他の文書では喜多□兵衛=坂田郡宛、日岡帯刀=伊香郡

*8:浅井

*9:秀吉の意思

*10:「御」があるので秀吉の直臣、ここでは上坂正信の責任であるという意、

*11:慶長二年

*12:正信、文禄四年秀吉より一千石与えられた

*13:脇付

文禄5年3月1日石田三成十三ヶ条村掟を読む その13/止

 

一、めんの儀にいたつてハ、秋はしめ田からざるまへに、田がしらにて見およひ、めんの儀あひさだむへし、もし百性と代官と、ねんちがいの田あらば、其村の上中下三だん*1に升づき*2をせしめ、免の儀さたむへし、なをねんちかいあらは、いねをかり、三つにつミわけ、くじとりニいたし、二ぶん代官へとり、一ぶん百性さくとくにとるへく候、如此さたむる上ハ、代官ニみせすかり取田ハ、めんの儀つかハし申ましき事、

  右十三ヶ条如件、

文禄五年

 三月朔日     治部少(花押)

 

(書き下し文)

ひとつ、免の儀に至っては、秋初め田苅らざる前に、田頭にて見及び、免の儀あい定むべし、もし百性と代官と、念違いの田あらば、その村の上中下三だんに升づきをせしめ、免の儀定むべし、なお念違いあらば、稲を苅り、三つに積み分け、くじとりに致し、二分代官へ取り、一分百性作徳に取るべく候、かくのごとく定むる上は、代官に見せず苅り取る田は、免の儀遣わし申まじきこと、

 

(大意)

ひとつ、年貢減免は秋の初めに田を刈り取る前に、よく作柄を見て減免率を決めなさい。もし百姓と代官のあいだに認識が異なる田があれば、その村の上田・中田・下田の三段に分けて作柄を量り、減免率を定めなさい。それでもなお百姓と代官が納得しない場合は村全体の稲を刈り取り、三つに積み分けて、くじを引きなさい。3分の2を代官が、残りの3分の1は百姓の作徳としなさい。このように定めたので、代官に作柄を見せずに刈り取った場合は年貢減免はしない。

 

 

風損、水損、虫損など天災が原因で不作になったさいの年貢減免について定めたものである。田を刈り取る前に作柄を見た上で、百姓と代官が相対で決めるように、という内容である。三成の蔵入地であるにもかかわらず、彼自身はかかわっていない。

 

 

「升づき」を『日本国語大辞典』は次のように解説する。

 

田畑の各筆(ひつ)の上・中・下の等級を決めて、一村の収穫高を算出し、これと高とを比べて田租の割合を決めること。

*池野文書‐東浅井郡志四・文祿五年〔1596〕三月一日・石田三成落村掟「一ねんぐのおさめやうの事、田刈らさる前に、田頭にて見はからひ、免之儀相定むべし。若給人、百姓ねんちがひの田あらば、升つきいたし、免定め可申候」

 

*歌謡・踊唱歌〔17C後〕御伊勢踊「今年や世の中稲の桝づきしてみたら、稲は三束、米は五斗五升五合つく」

 

"ます‐づき【升〓】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2018-08-04)

 

 

この説明では、田畑の上中下ごとに村全体の収穫高を量り、年貢率を定めることを「升づき」の意味とするが、これでは前後も含む説明になるので、上記のように解釈した。

 

「御伊勢踊」も「稲を升づきしたら、稲3束が米5斗5升5合になった」とあるように、「作柄を確かめること」という意味と理解するのが妥当であろう。

 

 

*1:段:格付け

*2:作柄を量ること

文禄5年3月1日石田三成十三ヶ条村掟を読む その12

 

一、ねんぐ*1おさめやう*2の事、壱石ニ弐升のくち米*3たる也、百性めん/\*4にあげに*5はかり*6、ふたへたわら*7にして、五里のぶんは百性もちいたす*8べし、五里の外ハ百姓のひま*9に、はんまい*10遣候て、もちいたさせ可申候、此外むつかしき事あるましき事、

 

(書き下し文)

ひとつ、年貢納め様のこと、壱石に弐升の口米たるなり、百性面々にあげに計り、二重俵にして、五里の分は百性持ち出すべし、五里の外は百姓のひまに、飯米遣わし候て、持ち出させ申すべく候、このほか難しき事あるまじきこと、

 

(大意)

ひとつ、年貢納入にあっては、1石あたり2升の口米とする。百姓衆の面前で計り、二重俵に入れなさい。五里までは百姓が自前で運びなさい。五里以上の場合は、その百姓が運んだ時間に応じて飯米を与えて運ばせなさい。その他の苦情は認めない。

 

口米はもともと本年貢の減損分をあらかじめ補うために徴収したものだった。

 

年貢納入における不正や不公平感を払拭するために「百性面々にあげに」二重俵に納入せよという点は、村の団体性を示している。

 

 

*1:年貢

*2:納め様

*3:口米

*4:面々

*5:「上げ」は「人々の前で行う」の意、つまり百姓たちが勢揃いしている中

*6:計り

*7:二重俵

*8:持ち出す

*9:年貢米を運ぶ時間

*10:飯米