日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

自然災害と歴史学 日本のポンペイ 生死を分けた十五段 天明3年浅間山噴火

2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震、それによって引き起こされた東日本大震災以降、にわかに災害史が注目されるようになった、と世間では思われている。1995年の兵庫県南部地震とそれによる阪神淡路大震災のころについての記憶は定かでないのだが、これまでも自然災害についての研究は自然科学、考古学、歴史学それぞれの分野でも行われてきたし、史料集も作成されてきた。ただ、今回「未曾有の」「千年に一度」といわれたことで、これまで以上に注目されるようになった、というのが正直な感想である。

 

 

さて、「日本のポンペイ」「生死を分けた十五段」「浅間山噴火がフランス革命を起こした」といったはなしをお聞きになったことはないだろうか。この3つはいずれも天明3年(1783)の浅間山噴火に関するものだ。

 

「日本のポンペイ」、「生死を分けた…」とは、浅間山噴火(当時は「浅間山焼大変」などと呼ぶ)による土石流が上野国鎌原村(現群馬県嬬恋村)を埋めつくしてしまい、そのまま戦後にいたったところ、1979年に村はずれの観音堂で発掘調査が行われ、現在15段しかない石段が実際は50段あったことが明らかになったことからいわれるようになったことばである。しかもそこから二体の遺体が発見されたことで、天明年間の出来事がよみがえった。

 

 

人骨鑑定の結果、この二体は女性で、親子か姉妹で、一人がもう一人を負ぶって石段を駆け上ろうとしたが、あと十数段届かず、土石流に呑まれてしまったものと考えられている。この観音堂は高台にあり、50段のうち35段分の高さまで村を土石流が埋め尽くしたのだ。ここに逃れた者が村を再興したと伝えられているが、前述の遺体となって発掘されたふたりは、間に合わなかったということだ。ポンペイの場合、人間の部分が空洞になっていて、そこに石灰を流し込んで復元したそうだが、こちらの場合は髪や皮膚の一部も残っていたという。写真で見ても生々しくポンペイの石膏像とは比較にならない。なお詳しくはこちらを参照されたい。

 

www.vill.tsumagoi.gunma.jp

発掘当時の遺体の写真はこちらの4頁

http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/shiryo_kan/files/worksheet.pdf

www.wikiwand.com

karuizawa-style.net

 

 

さて、ではフランス革命浅間山の噴火がどう関係していたかというと、噴煙が成層圏まで達し、北半球全体が小氷期に入ったという説である。このことについては当ブログの守備範囲外だが、気候学の分野では以下のような研究がなされているので、興味がおありの方は参照されたい。

https://scholar.google.co.jp/scholar?q=%E5%B0%8F%E6%B0%B7%E6%9C%9F&hl=ja&as_sdt=0&as_vis=1&oi=scholart&sa=X&ved=0ahUKEwi1wYChoqTWAhUJE7wKHf_cA-oQgQMIJTAA

 

 

これまで歴史上の自然災害に対して無関心だったかというと、それは正確ではない。たとえば北原糸子『安政地震と民衆 地震の社会史』(三一書房 1983)などもある。ただ、何か災害が起こると耳目を集めるが、「喉元過ぎれば」の喩え通り忘れてしまうのだ。当時の人々はかなり刻銘に記録を、文字だけでなく、スケッチだったり、あるいは「鯰絵」だったりなど様々な手段で残してくれているのだが、注目され続けることがむずかしいのだろう。

 

そういえば、正平(康安)地震(1361)は南海トラフによって引き起こされたといわれているが、陸上では南朝方と北朝方に分かれて戦乱に明け暮れていた。日本海溝と日本列島、陸上と水底が揃って大変動を起こしていた時代といえるのかも知れない。

 

ともかく地元の図書館には府県史や市区町村史が備わっていることだろうし、こういったサイトもあるので、当時の記録に当たってみることをお勧めする。

 

www.archives.go.jp

 

 

大発見? 漢数字の四・肆を「亖」と書いた実例

先日、漢数字の四・肆について触れたが、その後「大発見?」があったので報告する。

まず以下の記事をご覧いただきたい。

 

nlab.itmedia.co.jp

それに対し拙ブログにて、こういう事例があることを紹介した。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

今回は、「亖」が使われている例を紹介する。弘前大学図書館所蔵の「妙源寺古文書」のなかにそれはあらわれる。

 

 

三河国平田庄桑子太子堂敷地之事

右田畠永代所奉寄進也、然者当寺任先例、致修理祈祷精誠可有、知行之状如件、

   貞治亖年八月廿日         散位重道(花押)

 

現物の写真は http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/rare/myogenji/index.html#page=13

 

(書き下し)

三河国平田庄桑子太子堂敷地のこと

右田畠永代寄進奉るところなり、しからば当寺先例に任せ、修理・祈祷いたし精誠あるべし、知行の状、くだんのごとし、

 

*桑の文字は異体字の「桒」だが、配慮しなかった。

 

 

この妙源寺古文書は、原本から忠実に書き写したものと思われ、陰影や花押の模写も正確で細かい。土地関係の文書は後々の裁判の証拠となるため、万一のために写をとったものと考えられる。中世人の文書の保管に関する意識が並々ならぬものであったことは、東寺百合文書に見られるとおりだ。

 

ここで「貞治亖年」(北朝年号、南朝年号では正平20年、西暦では1365年)とあるように使われた事例はあるようだ。

 

諸橋轍次大漢和辞典』巻一、524頁の「亖」の記述も「四」の籀文(ちゅうぶん:中国古代の書体である篆書の一種)とのみ記している。また、諸橋によれば「文書、帳簿などでは姦易を恐れて肆の字を用いる」(前掲書、巻三、3頁)という。日本の場合、律令制下では「肆」はしばしば見られたが、その後廃れたという気がする。荘園制では「四至」*が大前提になるので、それと関係するのかも知れない。

 

 

*四至:土地の境界を、東西南北それぞれで示したもの。「東は~を限り、南は~まで、西は××川、北は△△山にいたる」のように表す。

徳川期における不義密通、近親相姦(三親等内で関係をもった場合)の罪科と赦免について

徳川幕府は密通について、人妻と知っていた場合、知らずに通じていた場合、姉妹伯母姪との姦淫について次のように取り扱っていたようだ。

赦律(『徳川禁令考 別巻』295頁、創文社、1961年)によれば 

   拾五 密通又ハ強婬いたし候もの之事

一、人之女房と乍弁密会之儀申合、又ハ強婬可致と仕成、或ハ夫江手向いたし候類、赦免難成事、

   是者、先例ニ見合、評議之上相認申候、

一、密通申掛候迄之もの、或ハ人之女房と不存類、其外品軽キハ、御仕置之軽重ニ応し、赦免可申付事、

   是者、先例ニ見合、評議之上相認申候、

一、姉妹伯母姪等と密通いたし候もの、赦免難成事、

   是者、先例ニ見合、評議之上相認申候、

 

*強婬:強姦

(書き下し)

  拾五 密通または強婬いたし候もののこと

一、人の女房とわきまえながら、密会の儀申し合わせ、または強婬いたすべきと仕成、あるいは夫え手向かいいたし候たぐい、赦免成り難きこと、

  これは、先例に見合わせ、評議の上相認め申し候、

一、密通申し掛け候までの者、あるいは人の女房と存ぜざる類、そのほか品軽きは、お仕置きの軽重に応じ、赦免申し付くべきこと

  これは、先例に見合わせ、評議の上相認め申し候、

一、姉妹・伯母・姪などと密通いたし候もの、赦免成り難きこと、

  これは、先例に見合わせ、評議の上相認め申し候、

 

 

赦律は恩赦に関する法典で、朝廷や幕府の吉凶にしたがって施行していた。つまり、恩赦に関するものだが少々興味深いので紹介してみた。二条目と三条目について述べてみる。

 

 

二条目は、密通を持ちかけた段階の者(まだ行為に及んでいない場合)、あるいは人妻と知らずに密通した者、そのほか軽罪の場合は、仕置きの重い軽いに応じて、赦免を申し付けなさい、と定めている。

 

 

三条目では近親相姦は赦免しないとしている。しかも、現在と同様に姉妹(二親等)、伯母・叔母・姪(三親等)と範囲が定められている点が興味深い。三親等以内の婚姻を認めない現民法より、「行為」自体を禁じている点は厳しかった、といえる。ただ、法令で定められていたからといって、当時の人々が守っていたとはいえない。むしろ、幕府が三親等以内の関係に悩んでいた、と解釈することもできる。問題は一親等(親子)の場合について言及がない点だ。当然忌むべきものとされていたのか、それとも実情に対して打つ手がないので、咎め立てしなかったのかここからはなんともいえない。

 

ちなみに、伯父・伯母は自分の親の兄・姉の場合、叔父・叔母は弟・妹の場合と使い分ける。

「新発見」光秀書状の問題点 これだけは押さえておきたい

今一度、この書状の論点をおさらいしておきたい。問題は以下の部分の解釈である。

 

  尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為*上意、

  可被仰出候条、不能巨細候、 

如仰未申通候処ニ、*上意馳走被申付而、示給快然候、然而**

御入洛事、即御請申上候、被得其意、御馳走肝要候事、

   (以下略)

 

 

 

(書き下し)

  なおもって、急度御入洛の義御馳走肝要に候、委

  細上意の為、仰せ出さるべく候の条、巨細あたわ

  ず候、

 仰せのごとくいまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示したまい、快然に候、しかれども

御入洛の事、すなわちお請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事、

(以下略)

 

 

*闕字:敬意を表す表現として一字分、空白とする方法。

 

**平出:敬意を表す表現方法の一つで、改行し文頭から書きはじめること。なお、大日本帝国憲法ではこの平出が頻出する。http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html

 

 

藤田達生氏は、従来の天正5年、信長による雑賀攻撃に関する文書との通説に対して、闕字や平出という表現法および「上意」「御入洛」とあるのは将軍である足利義昭以外に考えられないとして、本能寺の変が起きた天正10年のものと理解すべきと主張している(同『本能寺の変の群像』159頁以下、雄山閣、2001年)。

 

 

奥野高廣『増訂織田信長文書の研究(下)』299頁(吉川弘文館、1970年、1988年増訂)では、この「上意」「御入洛」について詳細な解説はされていない上、闕字や平出に関する註記もないという憾みもある。

 

 

ただ、最近の研究でも早島大祐氏のように、天正5年と解釈する見解もある(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』178頁、思文閣出版、2011年、2016年第2版)。

 

 

いずれにしても、この史料が天正5年の雑賀攻めに関する文書なのか、天正10年本能寺の変直後のものと解するのかで、全文の解釈はまったく異なる様相を見せることだけは疑いない。

 

 

補遺  平出は敬意表現の最上級といえる  2017/09/14

 

 

村上水軍の新史料

毎日新聞
 

「猶条々申合口上候、次来嶋落城之段定而不可有其隠候間、不能申候、恐々謹言

    三月十六日              昭光(花押)」

 

 

(書き下し)

「なお、条々申し合わせ口上候、次に来嶋落城の段定めてその隠れあるべからず候間、申しあたわず候、恐々謹言」

 

 

*恐々謹言:書状の末尾に書く決まり文句、こうした頻繁に使われる文字はくずし方がひどい。縦線一本だけで表す場合も珍しくない。「候」だと点だけで済ます事例は数え切れない。

 

 

書状なのでやはり年代は省略されていて「3月16日」としか記されていない。この記事によれば天正11年(1583)に比定されている。

 

記事では「定而付可有其隠候間」としているが「付」ではなく「不」ではと思うがいかがだろうか。

 
 
河野氏については川岡勉「中世伊予の山方領主と河野氏権力」(2003年)を参照されたい。