日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

蛤御門の変と新撰組に関する新史料

先々月、次のような報道がされた。

  

digital.asahi.com

mainichi.jp

www.sankei.com

www.nikkei.com

 

 そこで、この写真の部分だけ読んでみることにした。

 

今暁丑刻比ゟ当村下宿々ゟ会津様非番之諸隊縁ニ螺貝吹立、甲冑著シ出陣、其騒動去月廿七日之如シ

昨十八日当番之諸隊者其侭(平出)銭取橋御固ニ而非番之諸隊ハ伏見海(ママ)道ヲ長州勢差登り来リ候ニ付、其方へ出張

  

丑ノ刻比ゟ寅中刻頃迄、伏見海(ママ) 道筋深草辺ニ而、度々大炮発之音相聞候、今朝御所中立売御門・蛤御門・堺町御門右三門ニ而、長州方ト会津様・越前様・薩州様・彦根様方ト大炮打合合戦、

 

右ニ付鷹司様御殿并蛤御門辺其外近辺之町家ゟ焼始メ大火ニ成ル、

 

今日午刻頃長州方三十人計、東洞院通ヲとふ池辺迄引退キ来候処、新選組立向ひ、鉄砲打合、長州方相負当村野道を西え逃レ去ル、

 

一、晩方三條より姉おいし殿、下女弐人・下男壱人召連、当方へ立退キ被来事、

 

一、右騒動ニ付、当村中不残衣類道具取片付、今夜野宿いたし候者も有之、当方も土蔵目堅相改いたし、衣類取片付ニ及ふ

 

 

(書き下し)

今暁丑の刻頃より当村下宿々より会津様非番も諸隊、縁に螺貝吹き立て、甲冑着し出陣、その騒動去る月二十七日のごとし、

昨十八日当番の諸隊はそのまま銭取橋御かためにて、非番の諸隊は伏見街道を長州勢差し登りきたり候につき、その方へ出張、

 

丑の刻ころより寅中刻まで、伏見海(街)道筋深草あたりにて、度々大発炮(砲)の音あい聞こえ候、今朝御所中立売御門・蛤御門・堺町御門右三門にて、長州方と会津様・越前様・薩州様・彦根様方と大炮打ち合い、合戦、

 

右に付き、鷹司様御殿ならびに蛤御門あたりそのほか近辺の町家より焼き始め大火になる、

 

今日、午の刻ころ、長州方三十人ばかり、東洞院通をどぶ池あたりまで引き退き来り候ところ、新選組立ち向ひ、鉄砲打ち合い、長州方相負け当村野道を西へ逃がれ去る、

 

一、晩方三條より姉おいし殿、下女弐人・下男壱人召し連れ、当方へ立ち退き来られること、

 

一、右騒動に付き、当村中残らず衣類・道具取り片付け、今夜野宿いたし候者もこれあり、当方も土蔵目かたく相改めいたし、衣類取り片付けに及ぶ、

 

 興味深いのは「長州方」に対して「会津様」「越前様」「薩州様」「彦根様」と敬称の有無が分かれているところである。

またこの戦いを「合戦」と表現しているところからかなりの規模であったことも推測できる。

また新選組のせいで村人が野宿を強いられるという、巻き込まれた側の悲惨な一夜が思い浮かぶ。

続々「新発見」の光秀書状の原文と書き下し文を載せてみた

書状の宛所(宛先)の土橋重治について高木昭作監修、谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年初版)255頁によると

 

生没年不詳。平之丞、平尉。紀伊名草郡の土豪雑賀衆の一人。兵次守重の弟という。本願寺に与し、播磨三木城の別所長治に助力。天正7(1579)年9月10日、三木城に兵糧を入れた(天正記・別所長治記)。

同10年1月23日以前、兄守重が鈴木孫市重秀に殺されると、一族して居城に籠もり、しばらく織田信長の軍と戦ったが、ついに敗れて、舟で土佐まで逃れた(信長公記・宇野主水日記)。

本能寺の変後、また雑賀に戻ったのであろう。秀吉に招聘されたが、仇である孫市も招かれたので断ったという(紀伊風土記・土橋伝記抜書之写)。

紀伊鶯森に移った後の本願寺とも引き続き懇意で、同10年9月24日、本願寺より根来寺への礼を取り次いでいる(宇野主水日記)。

同13年3月、秀吉の雑賀攻めに会い、砦を陥され、24日、舟でまたも土佐へ逃れた(宇野主水日記・小早川家文書)。

その後北条氏政に仕える。小田原陣の後浪人したが、その後、毛利氏に仕えるという(阿部猛外『戦国人名事典』)。 

 

 

なお早島大祐氏は「上意」「御入洛」が信長を指すという天正5年説を踏襲しており(同「明智光秀の居所と行動」178頁  藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年、2016年改訂)、雑賀攻めの戦後処理時の文書とみなしているようだ。

続「新発見」の光秀書状の原文と書き下し文を載せてみた

ニュース上ではやたら「新発見」と騒いでいるが、正確には原本の発見と言うべきところだ。実際知られた史料であり、奥野高廣『織田信長文書の研究』に収載されている。藤田達生氏は、足利義昭による「半済」「鞆夫」などの諸役を徴収していたことから「鞆幕府」体制が健在だったと指摘した上で、この新発見とされる史料を用いて義昭黒幕説を主張している。

 

 

ただ問題は、書状には通常月日しか記載されていないので、年代比定が難しいというところにある。実際「六月十二日」としか書かれていない。奥野氏は天正5年説を採っているが、藤田氏は天正10年説を採用している。

 

原本が見つかったこと自体は大変重要な発見だが、「本能寺の変の史料新発見」は少々勇み足ではないだろうか。

 

しかもどのメディアも藤田氏以外の研究者の見解を紹介していない。たとえば、朝廷黒幕説を唱え、論争を引き起こした立花京子氏等の見解もまたれるところである。

 

 

 

「新発見」の光秀書状の原文と書き下し文を載せてみた

引用は奥野高廣『増訂織田信長文書の研究(下)』(吉川弘文館、1970年初版、1988年増訂)pp.298~299 ただし、闕字、平出は無視する

 

(包紙) 

  雑賀五郷      惟任日向守

  土橋平尉殿        光秀

       御返報        」

 

   尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為上意、可被仰出候条、不能巨細候

 

 

如仰未申通候処ニ、上意馳走被申付而、示給快然候、然而 御入洛事、即御請申上候、被得其意、御馳走肝要候事、

一、其国儀、可有御入魂旨、珍重候、弥被得其意、可申談候事、

一、高野・根来・其元之衆被相談、至泉・河表御出勢尤候、知行等儀、年寄以国申談、後々迄互入魂難遁様、可相談事、

一、江州・濃州悉平均申付、任覚悟候、御気遣有間敷候、尚使者可申候、恐々謹言、

  六月十二日             光秀(花押)

  雑賀五郷

  土橋平尉殿

      御返報

 

(書き下し)

  *(この部分は追伸)なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、

仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、

一、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、

一、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、

一、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言

 

この書状を奥野氏は天正5年と比定しているが、藤田氏は天正10年のものと考えている。

藤田氏の著書『本能寺の変の群像』159頁(雄山閣、2001年)でこの書状に言及しているので参照されたい。

 

ところで文中「御気遣有間敷候」とあるが「有間敷」は「あるまじく」と読む。夏目漱石の小説などに「六ケ敷」と書いて「むつかしく」と読ませる例が見られるが、これと通ずるものがある。

 

もし六角氏領内で不作になったら、農民はどうすればよいのか?

一、損免の事、庄例・郷例ありといへども、先々の次第棄破せられおわんぬ。自今以後においては、所務人・地主・名主(ミョウシュ)・作人等立相ひ内検せしめ、立毛に応じこれを乞ひ、下行あるべし。もし立毛これを見せず刈り執り、損免申す族これありといへども、限りある年貢減少せず、悉く納所あるべし。公方年貢米銭等、先々免行はざる下地は、向後において損免の沙汰あるべからず。なかんづく、礼儀をもつて損免を乞ひ取る儀、停止(チョウジ)せしめおわんぬ。しかるうへは、礼銭を出す輩・執る輩、共にもつて曲事たるべき事。

 

(原文省略)『中世政治社会思想(上)』284頁

 

一、(風水害・虫害などの)損害による年貢の減免は、荘園や郷村の前例があるとしても、先例は破棄したところである。今後、所務人(通常荘園の代官などのこと)、地主、名主(この二者は上級農民)、作人(実際に耕作している者)など立ち会わせて調査を行わせ、実際の実り具合に応じて、年貢減免を申し出、減免を行うべきである。もし実り具合を見せずに収穫し、減免を申し出る者がいたとしても、年貢減免を行わず、すべて収納しなさい。公方年貢(荘園領主や地頭に納める年貢)米や銭など、以前にも減免を行わなかった郷村では、今後もこういった沙汰は出さない。なかでも、礼儀(賄賂の一種)を使って減免を願い出る行為は禁止したところである。そういうわけで、賄賂を渡す者、受け取る者ともに罪科である。

 

 

以前なら、荘園や郷村などで年貢減免のルールがあったのだが、戦国大名六角氏はこれはすべてご破算にするという。これまでそういうルールがなかったところは、もちろん今後もそういった手心を加えることはないとも断っている。

 

減免を行う場合は実際に実り具合を見てからという。それまでは、調査にやって来ることもなかったようだ。また、代官などに賄賂を渡して手心を加えてもらう習慣もあったらしいことがわかる。

 

立会人として様々な身分の名称があがっているが、村の中はかなり複雑だったようだ。