日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

萬暦19年8月21日島津義久宛尚寧王書状を読む

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                     国立歴史民俗博物館図録『日本の中世文書』6-16号文書、176頁

 

(竪紙)

今春直林寺*1使節下向無恙上着*2

哉然者為関八州追伐之祝儀*3今度紋船*4

令渡海万端可然之様御調達憑入*5候国

*6衰微之間雖不献方物*7表楽人*8等之

儀式為使節差上建善大喜和尚茂留

味里大屋子*9委曲付于彼舌頭者也雖軽

薄土産*10*11于別副聊表礼儀而已恐惶

不宣*12

  萬暦十九年*13

   仲穐*14廿有一日

            中山王*15(朱印)*16

謹上*17  嶋津修理大夫入道殿*18

 

(書き下し文)

今春直林寺使節として下向しつつがなく上着候や、しからば関八州追伐の祝儀として、今度紋船渡海せしめ、万端しかるべきのさま御調達憑み入り候、国家衰微のあいだ、方物献ぜざるといえども、表の楽人等の儀式使節として差し上げ、建善大喜和尚・茂留・味里大屋子委曲について彼の舌頭するものなり、軽薄の土産といえども録別に副え、いささか礼儀を表すのみ、恐惶不宣、

 

(大意)

この春、使節として派遣した者たちは無事に到着しましたでしょうか。このたびは秀吉様の天下統一のお祝いのため紋船を派遣しましたので、種々よろしくお願い申し上げます。我が琉球王国は困難に直面しておりますので、貢物は献上しませんが、奏者を儀式の使節として派遣し、建善大喜和尚らが詳しく申し上げます。誠意のない献上品ではありますが目録をこの文書に副え、わずかばかりの敬意のみをあらわします。謹んで申し上げました。

  

 

充所に「謹上」と書き、差出人とくらべて高い位置に置かれている一方、差出人の文字はやや大書されている。ここに外交上の微妙な関係が反映されている。

 

 

*1:薩摩の現彦山神社にあった廃寺

*2:都へ上ること

*3:秀吉による天下統一

*4:あやぶね、琉球国王が嶋津氏へ派遣する船

*5:たのみいり

*6:琉球国のこと

*7:地域の名産

*8:三線の奏者か

*9:おおやく、上級士族の階層

*10:献上品、貢物

*11:目録

*12:ふせん、「十分に述べ尽くさない」の意で文末の決まり文句

*13:天正十九年

*14:八月

*15:尚寧

*16:印文「首里之印」

*17:きんじょう、「謹んで申し上げる」の意で充所の文頭につけることで敬意を表す

*18:義久

天文12年9月24日石雲寺宛北条長綱朱印状を読む

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http://www.city.isehara.kanagawa.jp/docs/2018102900096/file_contents/181101-4-5.pdf

(折紙)

任虎印判*1

*2役諸役其

外横合*3令停止

并竹木以下違

乱於申懸者急度

可申越者也仍

如件

 天文十二(朱印)

   九月廿四日

 石雲寺*4

 

(書き下し文)

虎の印判の旨に任せ伝役・諸役、そのほか横合い停止せしめ、ならびに竹木以下違乱申し懸けるにおいては、きっと申し越すべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 先に出した虎の印判状の趣旨にしたがい、伝馬役・諸役を免除し、正当な理由のない課役は禁止させる。また寺内の竹木を伐採するなど干渉する者がいたならば、必ず注進しなさい。以上の通りである。

 

 

小田原北条氏相模国四郡

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                            『国史大辞典』より作成

*1:小田原北条氏宗家の発する朱印状

*2:馬脱カ

*3:謂われのないこと

*4:山号は雨降山、相模国中郡、なお北条氏は大住郡、愛甲郡、余綾郡を中郡としていた

「千利休切腹事件」について「大日本史料」と「大日本古文書・伊達家文書」はどう扱っているか

大日本史料」編纂は明治政府が六国史の後継事業としてはじめたものであるが、編年史料集としてもっとも網羅的なものである。「大日本古文書」や「大日本古記録」などをもとに編まれた、巨大な年表をかねた史料集といえる。

 

もっともそれ故に、慶安4年までを12編に分けてはいるものの、事業の完成は1世紀以上経た現在も完結していない。また13編以降の新設もあるやに仄聞するが、いずれにしろ事業が完結するには、さらに数世紀は要するであろう。

 

さて天正19年2月28日に千利休切腹させられた事件について「大日本史料」の草稿*1では次のような綱文と註が付されている。

 

綱文

是より先、秀吉、千宗易(利休)を和泉堺に追放し、其寿像を一條戻橋に梟す、是日、宗易をして、自殺せしむ

 

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1591/16-5-2/4/0041?m=all&s=0041&n=20

 

晴豊記時慶記兼見記皆ソノ死ヲ云ハス鈴木新兵衛書状廿九日ニ在リ又未タソノ死ヲ知ラサルニ似タリ今多聞院日記松井家譜ニ従ヒ此日ニ叙ス 

 

晴豊記、時慶記、兼見記ともに死罪とはしていない。29日付の鈴木新兵衛書状にその記述があるものの死罪であるとは知らないようだ。多聞院日記、松井家譜により28日に記す。

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1591/16-5-2/4/0044?m=all&s=0041&n=20

 

では伊達政宗家臣鈴木新兵衛が、同じく伊達家重臣の石母田景頼に宛てた書状の該当部分を読んでみよう。

 

 (前略)

一、茶湯之天下一宗易*2、無道之刷*3年月連続之上、御追放、無行方*4候、然処ニ右之宗易、其身之形を木像ニ作立、紫野大徳寺ニ被納候ヲ、殿下樣*5より被召上、聚楽之大門もどり橋と申候所ニ、張付*6ニかけさせられ候、木像之八付*7、誠々前代未聞之由、於京中申事に候、見物之貴賤無際限候、右八付之脇ニ、色々ノ科共被遊、御札*8ヲ被相立候、おもしろき御文言、不可勝*9計候、(以下略)

             『大日本古文書・伊達家文書之二』80~81頁

 

頭注

千利休ノ追放」「秀吉、利休ノ木像ヲ磔ス」

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0302/0080?m=all&s=0079&n=20

 

(書き下し文)

ひとつ、茶湯の天下一宗易、無道の年月、連続するをはらうの上、御追放、行き方なく候、しかるところに右の宗易、その身の形を木像に作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下樣より召し上げられ、聚楽の大門戻橋と申し候ところに、張り付けに懸けさせられ候、木像の八付、誠に誠に前代未聞のよし、京中において申すことに候、見物の貴賤際限なく候、右八付の脇に、色々の科とも遊ばれ、御札をあい立てられ候、おもしろき御文言、勝さるべからざるばかりに候、

 

(大意)

ひとつ、天下一の茶人である千利休による無道の年月を清められるため追放となり、その行方は知れません。さらに、利休が自身の姿を木像とし、大徳寺に奉納したものを、関白様に召し上げられ、聚楽第の大門前にある一条戻橋というところで磔刑にされました。木像を磔刑に処するなどということは前代未聞のことだと、京都中で評判になっています。見物する者は身分を問わず、際限ないほどです。その脇には、利休の罪科が制札に書かれ、たてられています。おもしろい秀吉様のお言葉、これに勝るものはありません。

 

 

「伊達家文書」の編者も頭注にあるように切腹させたとはしていない。

 

多聞院日記2月28日条は次のように記す。

 

一、スキ*10者ノ宗益*11今暁腹切了ト、近年新儀ノ道具共用意シテ高直ニウル、マイス*12ノ頂上也トテ歟、以外*13関白殿御腹立、則ハタ物ニト被仰出テ、色〻トワヒコト*14ニテ、寿像ヲ作テ、紫野ニ置テハタ物ニ取上了、住屋検断、主ハ高野*15ヘ上ト、ヲカシキ*16事也、誠悪行故*17也、

 

売僧と呼ばれる悪徳商法に対して秀吉が立腹し、磔刑に処すと命じたのに対して、「侘言」により高野山へ登ったとある。しかし「今暁腹切しおわんぬと」と「ト」があるように切腹したと伝聞によって知ったようである。また、侘言(誰のかは不明)により寿像を磔刑に処し、屋敷を破却し、高野山へ登ったという風聞も耳にしたようで、「ヲカシキ事」と記している。

 

京都の公家の日記には見えず、奈良の僧が記録している点は重要である。同じ同時代史料とはいえ、その信憑性は一様ではない。

 

ともかく、草稿段階の「大日本史料」=「史料綜覧」では消極的ながらも天正19年2月28日に利休が切腹したとするが、「大日本古文書・伊達家文書」ではそこまで踏み込んでいないようだ。

 

*1:未刊行のため

*2:千利休

*3:はらう、ぬぐう

*4:ユキカタナク、行方不明の意

*5:秀吉

*6:

*7:ハッツケ、磔

*8:制札に科を書き出し掲示すること

*9:これ以上のない

*10:数寄

*11:宗易

*12:売僧、ひとを騙す者

*13:もってのほか

*14:侘言

*15:高野山

*16:あやしい

*17:利休が磔刑に処せられた理由

天正11年3月晦日羽柴秀長宛羽柴秀吉判物を読む

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         2014年NHK大河ドラマ特別展図録『軍師官兵衛』86号文書、86頁

 

図録では「書状」とするが、文頭に表題が掲げられていること、「御宿所」「人〻御中(おんなか)」などの脇付が記載されていないこと、書き止め文言などから当ブログでは判物とした。なお『豊臣秀吉文書集』一、620号文書でも判物としている。ただ「以上」という書き止め文言は近世中後期の願書など、上申文書に見られることが多く、今後の課題としたい。

 

日本中近世では、公的な上意下達、下情上申を本来私信であるはずの書状で伝えるケースが非常に多い。繰り返し述べているが、最近古文書(発給人、受給人が明示的な文書)を安易に「書状」と呼ぶケースが増えているが、古文書学的には誤っているので注意を要する。

 

「判」は現在では印鑑を指すが、花押を書判とも呼ぶので花押が据えてある文書を判物、朱印・黒印が捺されているものを印判状(それぞれ印肉の色により朱印状、黒印状)と呼ぶ。なお、正確には印鑑は捺された印影を意味し、印文が刻まれたもの自体は印形、印章と呼ぶ。したがって「印鑑を偽造する」という言い方は現在はともかく本来なら誤用で、「印章を偽造する」と呼ぶのが正しいことになる。

 

 

 

    今日中ニ取出*1之堀のそとの小屋

(付箋)

   「可壊取書置*2之事」

(一、カ)

[  ]柴伊*3*4小屋*5儀美濃守*6てつたひ*7すへき

(一、久カ)

[  ]太*8小屋儀ハ将右衛門*9くミ*10の衆(闕字)官兵衛*11

くミ之衆(闕字)隼人*12くミ之衆為此衆*13てつたい候て

今日中ニ可被壊取事

一、筒順*14も久太*15小屋儀こほちとり*16之てつ

たい候て今日中ニ隙*17を可被明事

(一脱カ)明日朔日人数右ニ申所まて可被打入*18

陣はらい有間敷候小屋/\の火をけさせ

念を可被入候自然火もたきのこし小屋

より火出候ハゝ其くミの衆可為越度事

 以上

 三月晦日*19     秀吉(花押)

   美濃守殿

 

(書き下し文)

 

  今日中に取出の堀の外の小屋、壊ち取るべき書置のこと

一、柴伊衆小屋の儀、美濃守手伝いすべき

一、久太小屋の儀は、将右衛門組の衆、官兵衛組の衆、隼人組の衆、このための衆手伝い候て、今日中に壊ち取らるべきこと、

一、筒順も、久太小屋の儀壊ち取りの手伝い候て、今日中に隙を明けらるべきこと、

明日朔日人数右に申す所まで、打ち入らるべきこと、

陣払い*20あるまじく候、小屋/\の火を消させ、念を入らるべく候、自然火も炊き残し、小屋より火出で候わば、その組の衆越度たるべきこと、

 以上

  

 

 

(大意)

 

   今日中に出城の堀の外にある陣屋破却すべきものを書き置くこと

ひとつ、柴田勝豊郡の根小屋を破却することは、秀長軍が手伝うこととする。

ひとつ、堀秀政の陣は、前野長康組の衆、黒田孝高組の衆、木村重茲組の衆、このための衆が手伝い、今日中に破却することとする。

一、筒井順慶も、秀政小屋の破却を手伝い、今日中に更地にすること。

明日、四月一日人数を右に書き出したところへ、軍勢を退却させること。

陣開きはしないこと。小屋小屋の消火を徹底させること。万一火も消し忘れ、小屋から出火した際は、その組の軍勢全体の越度としなさい。以上。

  

 

柴田勝家との合戦の戦後処理について、秀吉が弟である秀長に命じた文書である。

 

秀吉の軍勢は「組」や「衆」と呼ばれる組織で構成され、陣内での火気について「衆」全体で責任を負うことが記されている。

 

「為此衆」がよくわからないが、おそらく破却のためだけに徴発された「中間」「小者」「荒し子」などと呼ばれる陣夫で構成された「衆」であろう。

*1:とりで、出城

*2:この文書のこと

*3:柴田伊介、伊賀守:柴田勝豊

*4:柴田勝豊の軍勢の

*5:根小屋型城郭か

*6:羽柴秀長

*7:手伝

*8:堀久太郎:堀秀政

*9:前野将(小・勝)右衛門:前野長康

*10:組、前野を寄親とする寄子の組か

*11:黒田孝高

*12:木村隼人正:木村重茲

*13:取り壊しのためだけに集めた人数

*14:筒井順慶

*15:堀秀政

*16:毀取

*17:空地

*18:味方の軍勢を退却させる

*19:天正十一年

*20:退陣

天正11年4月29日狩野秀治・直江兼続宛羽柴秀吉書状を読む

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寺内織部方下国候之条、令啓候、仍去廿一日於柳瀬*1表合戦様子并柴田*2切腹相果趣、委細景勝へ申入候之間、委不及申、然者賀州能州越中属一篇候之条、国之置目等為可申付、至金沢城令逗留候、就中柴田謀反之刻、秀吉至越前表於令乱入*3者、可有御手合*4之由、深重*5雖承候、其御手筈相違候条、最前互誓紙取替申談儀、反古ニ罷成候、前後之固候間、其方御存分通、急度承可随其候、聊不可存疎意*6候、尚巨細織部方口上ニ申達候条、懇*7被聞召届、景勝へ可被申入事専用候、恐〻謹言、

(貼紙)

天正十一年」 

 卯月廿九日     秀吉(花押)

  直江山城守*8殿

  狩野讃岐守*9殿

       御宿所

    

          名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 一』211~212頁

              国立歴史民俗博物館『日本の中世文書』5-18号文書、141頁

 

(書き下し文)

寺内織部方下国候の条、啓せしめ候、よって去る廿一日柳瀬表において合戦の様子ならびに柴田切腹しあい果つるおもむき、委細景勝へ申し入れ候のあいだ、くわしく申すにおよばず、しからば賀州能州越中一篇に属し候の条、国の置目など申し付くべきため、金沢城にいたり逗留せしめ候、なかんずく柴田謀反のきざみ、秀吉越前表にいたり乱入せしむるにおいては、御手合あるべきの由、深重承り候といえども、その御手筈相違候条、最前互いに誓紙取り替わし申し談ずる儀、反古に罷り成り候、前後の固めに候あいだ、その方御存分どおり、急度承わりそれに随うべく候、聊かも疎意にぞんずべからず候、なお巨細織部方口上に申し達し候条、ねんごろに聞こし召し届けられ、景勝へ申し入らるべくこと専用に候、恐〻謹言、

 

(大意)

使者として寺内織部が下向する旨手紙をもって申し上げます。去る21日近江柳瀬での合戦および柴田勝家切腹したことを詳しく景勝へ申し入れているのでここでは省略します。さて加賀、能登越中はすべて支配下に置き、領国の仕置を定めるため金沢城にとどまらせています。なかでも柴田が挙兵した際、越前に到着し敵が攻めてきた場合は合力すると何度もうかがいましたが、その手筈を誓紙で取り交わしました件、反故になってしまいました。領国の守備を固めるため、お考え通り必ずしたがってください。少しもおろそかにすることのないようにしてください。詳しくは織部が申し上げますので、よくお聞きになり、景勝へ必ずお伝えください。謹んで申し上げました。 

 

 

寺内織部天正8年6月9日勝興寺宛教如書状写に「寺内織部佑」として登場する、本願寺の使者であろう*10

 

近江国伊香郡柳瀬周辺図

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                「日本歴史地名大系」滋賀県より作成 

 

加賀国能登国越中国と上杉領国越後国周辺図

 

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*1:近江国伊香郡

*2:勝家

*3:不入権を主張する領域に対して、守護使などが不入権を無視して侵入する行為

*4:軍事同盟を結ぶこと

*5:何度も

*6:疎んじる心

*7:ていねいに

*8:直江兼続

*9:上杉景勝家臣秀治

*10:『加能古文書』696~697頁、

加能古文書 - 国立国会図書館デジタルコレクション