急度被仰遣候、小田原*1之儀、北条*2被為*3刎首、平均*4被仰付、此表*5悉被隙明候条、淀*6女房衆*7被差上*8候、然者来十五日三牧橋*9迄可相着候、成其心得、兼日令用意*10、小荷駄*11卅疋・夫丸*12六百人申付、路次無滞相越候様、馳走肝要候、留〻*13如書付*14、大津迄可為十一留*15候、猶山中橘内*16可申候也、
七月十日*17 (朱印)
清須とまり*18
羽柴筑前侍従とのへ*19
岡崎とまり*20
羽柴新庄侍従とのへ*21
(四、3300号)
(書き下し文)
急度仰せ遣わされ候、小田原の儀、北条首を刎ねさせられ、平均仰せ付けられ、この表ことごとく隙明られ候条、淀の女房衆差し上げられ候、しからば来たる十五日三枚橋まで相着くべく候、その心得をなし、兼日用意せしめ候、小荷駄30疋・夫丸600人申し付け、路次滞りなく相越し候よう、馳走肝要に候、縷々書付のごとく、大津まで十一留たるべく候、なお山中橘内申すべく候也、
(大意)
堅く申し付ける。小田原の件は北条氏政の首を刎ね、秀吉の支配下に入り、こちらは手隙となった。淀の女房衆を上京させるので来たる15日に三枚橋まで到着するだろうから、そのように心得なさい。かねてから用意させていた小荷駄30疋、夫丸600人を百姓らに命じ、途中滞りがないように女房衆が上京できるように奔走することが重要である。縷々書き付けたように大津までは11泊かかるであろう。なお詳しくは山中橘内が申す。
淀は古くから交通の要衝であり、また魚市場として古くから知られる。下図で分かるように瀬戸内海の舟運を難波津から淀川水系を利用して淀、そして京都。さらには大津から日本海を通して環日本海世界と繋がるヒト・モノ・カネの一大集散地(ハブ)だった。
天正17年秀吉はここに浅井茶々の居城を築いた。「淀殿」といった呼ばれ方をするのもこの頃からである。
Fig.1 淀津周辺図

Fig.2 伏見築城当時の巨椋池周辺図

さて小田原城に下向させた淀殿一行を無事上京させるため、小荷駄30疋と夫丸600人を徴発するよう、清須と岡崎に控えていた小早川隆景、吉川広家に命じている。つまり徴発される夫丸の対象地域は清須と岡崎周辺だったと推測される。
通常小荷駄一疋に二人が口取りをするが、600名の夫丸は交代要員も含めてのことかはっきりしない。しかし、600人に小荷駄30疋は鑓や荷物を持っていることから1.5メートルくらいの間隔で行軍してたことだろう。そう仮定すると1列行軍では900メートル、2列行軍でも500メートルの距離となる。ふだんそうした訓練を受けていない百姓たちが0.5キロから1キロ近い隊列をなし、整然と行進できるかと問えば否ということになろう。号令一下、一糸乱れぬ集団行動は繰り返し訓練を行わねば不可能である。入学卒業式や運動会での入場行進の練習を繰り返し行わされたことを思い起こしてほしい。また遠足などでも列を乱す行為はむしろふつうである。果たして秀吉が厳命したように「路次滞りなく相越し候よう」が実現できたのかははなはだ疑わしい。
*1:相模国
*2:氏政
*3:使役の助動詞「さす」
*4:征服、支配下に置くことを「平均」と呼ぶ。「平らに均す」ことから
*5:関東
*6:山城国久世郡とも紀伊郡とも、図1参照
*7:前年に淀城が完成したことから淀殿を「淀女房衆」、「淀のお方」などと呼び始めたのだろう
*8:上方へ送り出す
*9:駿河国駿東郡三枚橋城
*10:候脱カ
*11:いわゆる輜重兵。「輜重」は中国語由来で、牛あるいは馬1疋につき2人が口を取った
*12:非戦闘員として徴発された陣夫
*13:縷々=こまごまと
*14:この「書付」がどの文書を指すのか未詳
*15:11泊
*16:長俊
*17:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月9日、ユリウス暦同年7月30日
*18:尾張国春日井郡、「とまり」は「泊」で宿場。留守居
*19:小早川隆景
*20:三河国額田郡
*21:吉川広家