日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元亀2年4月20日庄康正宛北条家朱印状写

 

今回は太閤検地のもっとも重要な論点のひとつ、すなわち小農自立の歴史的前提となる奴隷的存在の譜代下人の実態を示す「泉郷百姓窪田十郎左衛門者欠落之事」との事書を持つ文書を採り上げる。本文書は一般向けの歴史書である安良城盛昭『太閤検地と石高制』*1や佐々木潤之介編『日本民衆の歴史3』*2所収の藤木久志「戦国大名と百姓」でも紹介されているのでご存じの方も多いと思われる。

 

 

 

 

   泉郷*3百姓窪田十郎左衛門者欠落之事

 

卯年*4欠落、豆州みろく寺*5ニ有之、

  壱人女梅同子壱人

 

*6八月欠落、同所有之、

  壱人女乙

 

*7六月欠落、武州符中*8ニ有之、

  壱人丹

 

*9九月欠落、豆州狩野内立野*10ニ有之、

  壱人善三郎親子三人

 

   以上七人

 

右、欠落之百姓、縦雖為不入之地*11他人之者拘置儀為曲事間、任国法*12、領主・代官*13ニ申断、急度可召返者也、仍如件、

 

   辛未

    卯月廿日*14 (虎朱印)            奉之*15

                          江雪*16

 

      庄新四*17殿

(『戦国遺文 後北条氏編』第2巻、181頁、1477号文書)

 

 

(書き下し文)

 

   泉郷百姓窪田十郎左衛門の者欠落のこと

 

卯年欠落、豆州みろく寺にこれあり、

  壱人女梅同子壱人

 

午八月欠落、同所にこれあり、

  壱人女乙

 

午六月欠落、武州府中にこれあり、

  壱人丹

 

巳九月欠落、豆州狩野の内立野にこれあり、

  壱人善三郎親子三人

 

   以上七人

 

右、欠落の百姓、たとい不入の地たるといえども、他人の者拘え置く儀曲事たるの間、国法に任せ、領主・代官に申し断わり、きっと召し返すべきものなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 

 

  泉郷百姓窪田十郎左衛門の者が欠落した件について

 

永禄10年に逃亡し、現在は伊豆弥勒寺に身を寄せる

 ひとり女梅とその子ひとり

 

永禄13年8月に逃亡し、同じく弥勒寺に身を寄せる

 ひとり女乙

 

永禄13年6月に逃亡し、武蔵国府中に身を寄せる

 ひとり丹

 

永禄12年9月に逃亡し、伊豆国狩野郡立野に身を寄せる

 ひとり善三郎親子3人

 

  合計7人

 

右の欠落した百姓たちについて、たとえ不入の地であっても「他人の者」を抱え置くことは曲事であるので国法通り、逃亡先の領主または代官に断った上で必ず召し返すこと。以上。

 

 

図1. 「泉郷百姓窪田十郎左衛門の者」欠落先関係図

                    GoogleMapより作成


本文書から読み取れるのは同じく「百姓」といっても窪田十郎左衛門のように名字を持つ者と下線部①のように「窪田十郎左衛門の者」と彼の所有物扱いされる7名の百姓に分かれていたということである。所有物扱いされている点は④「他人の者」という表現にも表れている。また②、③から彼らが家族を持っていたことも明らかである。簡単に図示すると図2のような構造になる。

 

図2. 窪田十郎左衛門と「その者」たち

 

窪田家を構成するのは善三郎親子3名などの「譜代下人」の家族を複数抱えた複合大家族である。彼ら彼女ら下人が自立した経営を営んでいたのか、それとも窪田のもとで大経営に従事していたのかは本文書のみでは分からない。しかし家族を持っていたとしても、下人らは窪田の家族に包摂される存在だった。さらにいえば種籾、農具や畜力など耕作するにも窪田に依存せざるを得なかったと思われる。先走るが、この所有物、つまり奴隷的存在の「下人」こそが近世の単婚小家族の小農として自立していくのである。

 

欠落関連の文書をもう一点引用しておく。

 

 

   従八幡郷*18欠落之者可召返事

 

伊東*19之鎌田ニ有之、

   甚四郎親子共三人

小鍋嶋*20ニ有之、

   小三郎妻子共五人

江戸*21ニ有之、

   二郎三郎親子共五人

河越*22ニ有之、

   鳥若

四屋*23ニ有之、

   とね

   甚房

藤沢*24ニ有之、

   弥六

鎌倉*25ニ有之、

   くら

川村*26ニ有之、

   善三郎

吉沢*27ニ有之、

   房

小田原*28二有之、

   ほうたい

伊豆田中*29ニ有之、

   いぬ親子二人

 以上廿壱*30

右、為国法間、領主・代官相断、急度可召返、若致難渋者有之者、注交名、可遂披露者也、仍如件、

 

  癸酉

   三月六日*31 (虎朱印)

 

     安藤源左衛門尉殿*32

 

(同上、230頁、1639号文書)
 

 

こちらは先の事例とは異なり一郷村から23名もの百姓が欠落したことを示す文書である。一斉に逃亡した(逃散)というより散発的個別的に欠落していったのであろうか、単身者もしくは単婚小家族が欠落先ごとに記されている。彼ら彼女らは窪田のように名字を持つわけでもなく、複合大家族を営んでいたわけでもない。

 

こうした単婚小家族が小農経営の担い手となっていくわけで、それは同時に窪田のような複合大家族の解体→単婚小家族化を促す。これが中世から近世に至る小農自立の道筋である。

 

太閤検地論争において中世社会に奴隷的存在が多数見られることには合意を得ているが、それでは中世が安良城のいうように家父長的奴隷制社会であるかどうかはまた別に検討を要する問題である。

 

*1:NHKブックス、1969年

*2:三省堂、1974年

*3:駿河国駿東郡、下図1参照

*4:永禄10年、1567

*5:伊豆国未詳

*6:永禄13年、1570

*7:永禄13年、1570

*8:武蔵国多摩郡府中、下図1参照

*9:永禄12年、1569

*10:伊豆国田方郡、下図1参照

*11:守護から守護使が立ち入らない特権を与えられた土地

*12:北条氏領国内の大法。「分国法」のように必ずしも成文法であるわけではない

*13:領主は戦国大名から封土を与えられている者、代官は戦国大名直轄領を支配する者

*14:元亀2年4月、ユリウス暦1571年5月13日

*15:この朱印状は板部岡江雪斎が奉者として承った

*16:板部岡融成、北条氏評定頭。「小田原評定」の語源となる評定

*17:郎脱、泉郷内に「同心給」をもつ領主

*18:駿河国駿東郡

*19:伊豆国賀茂郡

*20:相模国中郡

*21:武蔵国豊嶋郡

*22:武蔵国入間郡

*23:武蔵国多摩郡

*24:相模国東郡

*25:同上

*26:相模国西郡

*27:相模国中郡

*28:相模国西郡

*29:田方郡

*30:「三」の誤りカ

*31:元亀4年、ユリウス暦1573年4月7日

*32:清広、北条氏の馬廻衆