日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年4月4日九鬼島兵粮奉行宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

急度*1被仰出候、

 

一、御兵粮*2つミ*3候舟共*4為迎、梶原弥介*5披遣候、彼者*6申次第、舟共も早〻可出候、於油断者可為曲事事、

 

一、右御兵粮賃*7舟ニもつミ*8、運賃之儀ハ弥介申通可遣之事

 

一、御兵粮米何方之舟ニても*9可預ケ置*10と申候者*11、九鬼*12為留主居いか程も預り可置*13事、

 

  右旨、委曲*14梶原弥介可申渡候也、

 

   卯月四日*15 (朱印)

 

   九鬼島*16ニ在之御兵粮米

           奉行共かたへ

(四、3014号)
 
(書き下し文)
 

きっと仰せ出され候、

 

一、御兵粮積み候舟ども迎えとして、梶原弥介遣わされ候、彼の者申し次第、舟どもも早〻出だすべく候、油断においては曲事たるべきこと、

 

一、右御兵粮賃舟にも積み、運賃の儀は弥介申す通りこれを遣すべきこと

 

一、御兵粮米いずかたの舟にても預け置くべしと申しそうらわば、九鬼留主居としていかほども預り置くべきこと、

 

  右の旨、委曲梶原弥介申し渡すべく候なり、

 

 

   九鬼島にこれある御兵粮米奉行ども方へ

 

(大意)
 
関白殿下が以下のことを仰せになった。
 
一、兵粮を積む船の迎えとして梶原弥介を遣わした。梶原が申すように出帆させるように。油断があった場合は曲事とする。
 
一、右の兵粮船に運送賃も積み込み、弥介が申すとおりに船賃を支払うこと
 
一、兵粮米はどこの船であろうと弥介に託すように彼が申したなら、嘉隆は留主居の責任において何艘でも船を駆り出すこと。
 
右の趣旨、詳しくは梶原弥介が口頭で申す。
 
九鬼島に滞在している兵粮米奉行たちへ

 

 

本文書で「仰せ出され候」、「遣わされ候」のように尊敬の助動詞「被」が添えられている動詞の主語が秀吉で、ない場合は梶原弥介や九鬼嘉隆などである。

 

九鬼島がどこの島を指すのかは不明だが、九鬼嘉隆の本拠とする志摩国鳥羽周辺であろう。あるいは志摩国を「島」と呼ぶ例もあるので*17、九鬼の領国志摩を漠然と指している可能性もある。いずれにしろ伊勢湾に面した志摩は東国への大動脈の起点だった。

 

図1. 志摩国鳥羽周辺図

                 『日本歷史地名大辞典 三重県』より作成

天正17年12月5日船手人数定は表1の通りである。

 

表1. 船手人数

 

横道に逸れるが、石高に比例して軍役を負担するとは具体的にいかなる負担を諸大名が負うことになるのか。知行高を経済力と単純に置き換え、衣食住や武装など必需品と軍役負担の支出合計、予算制約などを図示すれば下図のように負担に耐えきれない大名となんとか耐えうる大名に分かれる。

 

 

図2. 軍役負担と知行高



むろんそうした負担を最終的に負うのは百姓らである。朝鮮出兵前の天正20年(文禄1年)1月豊臣秀次は吉川広家、小早川隆景、浅野長吉らに以下のような朱印状を発した。

 

 

御陣へ召し連れ候百姓の田畠のこと、その郷中として作毛仕りこれを遣わすべし、もし荒れ置くにいたらばその郷中御成敗なさるべき旨のこと、付けたり郷中として作毛ならざる仕合わせこれあるにおいては、かねて奉行へ相理るべきこと

 

(吉川家文書124号)

 

 

従軍させた百姓の田畠を郷中が責任を持って「惣作」*18し、けっして荒廃させることのないよう命じている。貴重な労働力が従軍により奪われるので、その労働力不足を共同体の連帯責任として転嫁したわけである。現実には秀次の不安は的中し、各地で荒廃田が出現することになる。

 

本文に戻ろう。船手が「船頭」を意味するならば、乗組員の総員はこれを大きく上回り、乗組員の総員を意味するなら水軍の規模となる。もちろん秀吉と水軍を率いる諸大名とのあいだに「船手」をめぐる解釈のズレが生じることもありうる。また水軍のうち輜重兵的な役割を担う者もいたはずである。本文書は兵粮米運送を担う輜重兵のような存在を「船手」と呼んだのであろう。

 

 

近代の軍制とは異なり、軍人(serviceman/officer)と民間人(civilian)、武官と文官の区別はなく、また交戦規程もなかったので戦闘員も非戦闘員も戦場に駆り出され、あるいは戦闘に巻き込まれることも少なくなかった。老若男女を問わず武装し、武力行使していた自力救済の時代であるから当然といえば当然である。

 

 

ところで本文書2条によれば、船賃に相当する銭か米などを積み、支払うように命じている。これが船主に利益をもたらすのか、それとも雀の涙ほどのものだったかは明らかでないものの、「対価」らしきものを支払うよう命じている点で「徴発」でないという形を装っていたといえる。もっとも朝鮮出兵時の最初の越冬時に船頭や水主の過半数が病死し、津々浦々から新たな漕ぎ手をかき集めているのでこの姿勢が終始一貫しているわけではない*19。中野等『太閤検地』*20が太閤検地は試行錯誤的に行われたと指摘するように、ある程度の政策基調はあるにしても、常に一貫した姿勢ではなく試行錯誤の連続だったのは軍制でも同じだったろう。

 

 

本文書は兵粮米の輸送を促すため梶原弥介を志摩に派遣したことを示している。それは前線への兵粮米の輸送が滞っていたということであろう。

 

 

 

*1:「必ず」という意味だが、ここでは強調をあらわす言葉でとくに意味はない。「せしむ」に使役の意味がないのと同様語調を整えるため

*2:「兵粮」に「御」が付いているのは秀吉の所有物であることを示す

*3:

*4:「共」は複数形、「子共」などと同様

*5:秀吉の水軍船手。船頭を「船手頭」、乗組員を「船手」と呼ぶが、船手頭を単に「船手」と呼ぶことも多いのでここでは船頭クラス

*6:梶原弥介

*7:兵粮を運ぶ船賃

*8:

*9:どこの舟であろうと

*10:人や物を託す、寄託する

*11:「申す」の主語は梶原弥介

*12:嘉隆

*13:「預り置く」の主語は九鬼嘉隆

*14:詳細は

*15:天正18年4月。グレゴリオ暦1590年5月7日、ユリウス暦同年4月27日

*16:志摩国のいずれかの島、下図参照

*17:2834~2835号

*18:共同耕作

*19:文禄2年2月5日島津義久/吉川広家宛秀吉朱印状。六、4406~4407号

*20:中公新書、2019年