(包紙ウハ書)
「 越後宰相殿*1 」
為在京賄料*2、於江州蒲生・野洲・高島三郡*3内壱万石<目録別紙*4有之>事、被宛行之訖、全可有領知之状如件、
天正十六
六月十五日(花押)
越後宰相とのへ
(三、2525号。<>内は割註)(書き下し文)
在京賄料として、江州蒲生・野洲・高島三郡のうち一万石(目録別紙これあり)のこと、これを宛がわれおわんぬ、まったく領知あるべくの状くだんのごとし、
(大意)
在京賄料として近江国蒲生・野洲・高島三郡の内から1万石(詳細は別紙目録参照)を充てがうものである。これを統治しなさい。
上杉景勝が上方にいるあいだの財政を賄うための領知を近江三郡から1万石与えるというものである。三郡は下図に示したとおりで、領知はおそらく分散している。これは近世にも引き継がれたようで、近江は全体的に所領の細分化・錯綜化が著しく、1村に複数の給人=領主がいる相給の村も少なくない(非領国地域)。彦根藩領のように一円的な領域を形成するケースは例外的と考えるのが妥当だろう。
こうした非領国地域が関八州や畿内周辺に多いことから、政治的・軍事的な意図から設定したとする説明も多いが、「そうせざるを得なかった」という歴史的経緯も考慮すべきではないだろうか。ある結果をもたらした要因をひとつやふたつに還元するのはあまりに乱暴であるし、ましてひとりや少数の人間の意図によってというのは神や悪魔でもない限りありえない。意図したとおりになるのならこの世はとっくに地上の楽園となっているはずである。
Fig.上杉景勝在京賄料近江三郡分布