慶応4年2月11日(太陰太陽暦)明治新政府は約300名を「諸侯」に任じた。このうち40万石以上の者を「大藩」*1としたが、徳川宗家16代徳川家達も駿河静岡藩主としてその一角を占める。こうした少数の者による支配体制をオリガーキー(oligarchy)、それら少数の支配者をオリガーク(oligarch)と呼ぶ。今話題の「オリガルヒ」(Олигархи)はこの複数形である。
このころから大名領を「藩」と呼ぶことになったのであって、その前は「領」と呼んでいた。1万石に満たない将軍家直臣旗本を「地頭」と呼び、その土地を「地頭知行所」、この二つをあわせて「私領」と呼び、「御領」、「御料」、公領である幕府直轄領と区別した。
慶応4年の翌年明治2年に大名を「藩知事」に任じ所管行政区を「藩」、また旧地頭領と幕府直轄領を合わせて「府県」とし、「府県知事」(権知事)を置いた。ここに「府県藩」体制が発足したわけである。
下表は縦軸に国を、横軸に諸侯を配し、国ごとに大名の員数を一覧できるように努めたが、もともと幕府領や旗本領の多い非領国地域はおおむね新政府直轄領に編入されたため結果的に彼らの存在は本表から抹消されている点注意されたい。
言うまでもなく、北海道は「道」なのであって従来の「七道」が「八道」に拡張された結果生まれたのであって、比較するなら府県ではなく東海道や東山道、北陸道などがふさわしい。なお広域行政区「道」も律令制に由来する。
その後の府県分割合併については折を見て掲載したい。
*1:「藩」とは本来バリケードとなる垣根=「藩屏」を意味し、転じて主君を守護する者、家臣を指すようになった。公的文書に「○○藩」と記されるようになったのも、特定領主が支配する領域をも意味するようになったのも明治以降のことで、同時代用語ではない