天正13年地震については多くの記録が残されている。おもな記事をまとめたのが下表である。
Table. 天正13年地震の記録
まず有名な帰雲城についての記述を見てみたい。
飛州*1の帰雲*2という在所は、内嶋という奉公衆*3あるところなり、地震に山を揺り崩し、山河多くせがれて*4内嶋の在所へ大洪水馳せ入て、内嶋一類・地下人にいたるまで、残らず死にたるなり、他国へ行きたる者4人残りて、泣く泣く在所へ帰りたるよし申しおわんぬ、①かの在所はことごとく淵になりたるなり、近江・越前・加賀別して*5大地震、和泉・河内・摂津同前、②六十余州大地震同前なり、されども別して破れ倒れたる国と、さほどになきと差別これあると云々、③いちいちこれを知りがたく、これに注ぐに及ばざるものなり、八十余歳の老人も、かくのごときこと見聞きたることこれなしと云々、
帰雲城は下図のように庄川沿いの峡谷に建てられた城で、下線部①にあるように対岸の帰雲山の崩落により川が堰き止められ水没した。
Fig. 帰雲城付近
『日本歷史地名大系 岐阜県』および
寒川旭『秀吉を襲った大地震』(平凡社新書、2010年)より作成
下線部②には「六十余州が大地震に見舞われた」という人々の「嘆き」が記されている。この表現は⑦の「日本国中在々所々滅亡に及び候」によく似ている。
③では「壊滅的被害を受けた国もあればそうでなかった国もある」という風聞を耳にするが、それが事実なのかどうかは知り得ないと釘を刺している。
これらの情報は「イエズス会日本書簡集」⑬に「毎日目撃することや、遠隔地から聞こえてくること」とあるように、「目撃したこと」や噂を書き留めたもの以上のものではない。被害状況を把握する手段や技術もそれを伝達する方法も今日から見ればきわめて原始的であり、あくまで「見聞きした」程度のはなしにすぎないが、唯一のメディアであることもまた事実である。
さて、この時秀吉は近江国坂本にいた。イエズス会の書簡集では⑨、⑩にあるように秀吉が一目散に京都に逃げ帰ってきたように書かれている。たしかに「兼見卿記」にも「坂本よりにわかに関白殿御上洛」(②)と見られ、「顕如上人貝塚御座所日記」にも「近江より大坂へ帰城」(⑤)とあり、「にわかに」(急いで)京都を経て大坂へ戻ったことは確かである。
しかし、このイエズス会宣教師による報告は「悪意」に満ちた書き方をしているように思われる。⑫、⑬に見られるように「異教徒たち」との対比で、「わたしたちの主」が異教徒たちの神々とは異なり「(倒壊するようなことが)起きないように計られた」と記しているからである。そもそも、宣教師たちの報告は、自分がいかに「異教徒たち」の国々で布教に尽力しているかを書き連ねたもので、自身に不利なことは控えめに、手柄になることは過大に報告する、一種のプロパガンダであって秀吉が「逃げ帰ってきた」という記述を額面通り受け取ることはできない。
最後にイエズス会書簡集から二点ほど。
ひとつめは⑧の液状化に関する記述の「悪臭を放っていた」原因は何かということである。現在なら下水道施設や産業廃棄物などいくらでも思い浮かぶが、地中から有害物質が大量に噴き出したということなのだろうか。
ふたつめは⑭の数ヶ月も経たないうちに何もなかったかのように振る舞っていたという記述である。もちろん「異教徒たち」というバイアスにもとづいた記述であるが、今日の我々にも耳が痛い指摘である。