如尊意*3其以来不申通*4、無為*5御音信*6御使僧*7并ニ薄板*8如御札*9拝領仕候、御懇慮*10之至候、仍貴寺諸塔頭領*11粟田口*12之内ニ在之分、明知十兵衛*13方押領之由被仰越候、則申遣*14候、定而不可有別条候哉、猶御使僧へ申渡候、可得尊意候、恐惶敬白、
六月廿六日*15 秀吉(花押影)
『秀吉文書集』一、901号、287頁(書き下し文)尊意のごとくそれ以来申し通ぜず、無為に御音信・御使僧ならびに薄板御札のごとく拝領つかまつり候、御懇慮のいたりに候、よって貴寺諸塔頭領粟田口のうちにこれあるぶん、明知十兵衛方押領のよし仰せ越され候、すなわち申し遣わし候、さだめて別条あるべからず候や、なお御使僧へ申し渡し候、尊意をうべく候、恐惶敬白、なおもって御寺領の義懇ろに申し遣わし候条、御心安く思さるべく、相替わる義そうらわば仰せ下さるべく候、いささかも疎意に存ずべからず候、以上、(大意)おっしゃるようにあれ以来すっかりご無沙汰しておりますが、無事にお手紙および薄板をご使僧よりたしかに拝受しました。大変なご厚意に存じます。さて貴寺諸塔頭の荘園のうち粟田口の分を明智光秀が押領しているとのこと。早速光秀に押領をやめるよう申し伝えます。決して問題なく収まることでしょうとご使僧にお伝えしましたのでお含み置きください。謹んで申し上げました。追伸。貴寺荘園の件親身に光秀に申し伝えますので、ご安心ください。何かございましたら、おっしゃってください。決して等閑には致しません。以上です。
Fig. 南禅寺・粟田口周辺図
粟田口は、死後本能寺で首が晒されたあと、胴体とつなげられ磔にされた*20明智光秀終焉の地としても知られる。
光秀が「惟任」の名字を与えられ、日向守に任官したのは天正3年7月である。よって6月26日付で「明知十兵衛」の名が見える本文書の下限は天正3年となる。もちろんそれらが周知のこととなるには時間を要するが、写といえ他でもない秀吉発給の文書であり、相手は京都近郊の名門寺院である。さすがにそこまで考慮する必要はないだろう。
一方上限については、光秀が諸権門領を押領しはじめる元亀1年くらいから*21、といったところだろうか。残念ながら当ブログでは上限の確定は今回もできなかった。
*1:明智光秀が寺領を押領していること
*2:親しく、熱心に
*3:あなた様のご意思、手紙の文面
*4:あの時以来ご無沙汰をしております
*5:ブイ。無事であること、平穏なさま
*6:インシン。便りや贈答品、賄賂
*7:使者となる僧
*8:平絹類の総称
*9:ギョサツ、お手紙
*10:ご厚意
*11:「貴寺」は南禅寺、「諸塔頭」は南禅寺に属する「院」・「庵」と呼ばれる小寺院。その諸「塔頭」の荘園が「諸塔頭領」
*12:東海道・東山道と京都の出入口。図参照
*13:明智光秀
*14:「言って遣る」の謙譲語
*15:元亀1~天正3年カ
*16:山城国、図参照
*17:南禅寺の意思決定を行う合議体
*18:僧侶へ送る書状の脇付。なお「閣下」はもともと「高殿の下」という建物を指す意味
*19:この手紙が返書であるという意味
*20:『大日本史料』第11編1巻、天正10年6月17日条。「言経卿記」、「兼見卿記」、「多聞院日記」、「華頂要略」など
*21:年未詳「山城国久世上下庄年貢米公事銭等注文」東寺百合文書「へ」函/225