日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正20年7月23日島津又一郎久保宛島津龍伯義久書状を読む

 

依遠国、渡海已後無音*1罷過候、誠非本意候、夜白*2被成辛労候事、従是旦夕*3察存計候、然者*4梅北慮外*5逆心を企候之故、某事*6モ於名護屋及折角*7候処、(闕字)太閤樣(闕字)上意忝候て、奇特*8ニ進退*9指遁候、此抔*10之儀ニ付、薩隅之置目可被改由、被仰出、為(闕字)上使*11幽斎老*12下向候、拙者モ案内者仕候へと承候間、当時*13在国候、将又御検地*14之事、浅野弾入*15殿御当*16にて、一揆成敗之由候て、肥州*17八城*18へ逗留候、従彼方直可有下着様、聞得候、返〻高麗之直説*19無之候間、無心元令存候、便宜*20之節、懇ニ可示預*21*22大望候、恐〻謹言、
  七月廿三日*23  龍伯*24(花押)
  又一郎殿*25

            『大日本古文書 島津家文書之三』 1450号文書


(書き下し文)

遠国より、渡海已後無音罷り過し候、誠に本意にあらず候、夜白辛労なられ候こと、これより旦夕察し存ずばかりに候、しからば梅北慮外の逆心を企て候のゆえ、某りごとも名護屋において折角に及び候ところ、太閤樣上意かたじけなく候て、奇特に進退指し遁がれ候、これなどの儀につき、薩・隅の置目改らるべきよし、仰せ出だされ、上使として幽斎老下向候、拙者も案内者つかまつり候へと承り候あいだ、当時在国候、はたまた御検地のこと、浅野弾入(ママ)殿お当りにて、一揆成敗のよし候て、肥州八城へ逗留候、彼方より直に下着あるべく様、聞こえ候、返す返すも高麗の直説これなく候あいだ、心元なく存じせしめ候、便宜の節、ねんごろにあらかじめ事を*26示すべく大いに望み候、恐〻謹言、
  


(大意)
遠いところからお便り申し上げます。渡海してから無沙汰しておりますが、本意ではありません。日夜ご苦労されていることと常々思っております。さて、梅北国兼が突如逆心を企てたため、名護屋で懸念を解消すべく骨を折りましたところ、太閤様のおぼえめでたく、不思議なことに所領没収ということもありませんでした。こうしたことから、薩摩・大隅の支配を改められると仰せになり、ご使者として細川幽斎殿が下ってきます。わたしも案内するようにと承っておりますので、現在薩摩におります。ご検地は、浅野長政殿が担当で、一揆討伐を命じられ、肥後国八代にとどまっておりますことから、まもなく到着することと聞いております。高麗出陣の事情について直接聞くことはありませんので、不安に感じております。便りを書く機会がありましたらあらかじめお教え下されたく存じます。謹んで申し上げました。

 


島津久保は島津義弘の男子で、差出人の義久とは伯父と甥の関係にあたる。久保は義弘とともに唐入のため出陣中であった。一方義久は、当初名護屋に在陣していたが、梅北国兼が蜂起したため、薩摩に帰国していた。

島津家にとって、国兼らの蜂起は一大不祥事であり、所領没収もあり得た。さしあたり没収は免れたものの、細川幽斎を検地奉行として派遣させることになったと伝えている。薩摩・大隅(日向諸縣も)に秀吉の支配が直接及ぶことになるという、一大転換期を迎えることになる。

*1:ブイン、無沙汰

*2:ヤハク、夜と昼

*3:タンセキ、つねづね

*4:「ここから本論に入る」ときの決まり文句

*5:予想に反して

*6:不安に思うこと

*7:努力する

*8:不思議なことに、奇蹟のような

*9:知行をあてがったり、没収したりすること。ここでは後者の意

*10:「等」の異体字

*11:闕字なのは、秀吉の使者として細川幽斎が下向するためで、秀吉への敬意を表している

*12:自分より年長者に対して軽い敬意を表す。老人とは限らない

*13:現在

*14:「御」がついているので秀吉による検地

*15:ママ、浅野長政

*16:担当する

*17:肥後国

*18:八代

*19:仏が教えを直接説くことから、ここでは噂でない確かな情報の意

*20:ビンギ、よい機会、便り

*21:アラカジメ、「予」

*22:もしくは「預事」ヨジで「あらかじめ」

*23:天正20年

*24:島津義久

*25:島津久保

*26:もしくは「ねんごろに預事示すべく」