前回に続き梅北一揆関連の史料を読んでいく。
Fig.1 肥前国松浦郡名護屋周辺略図 『国史大辞典』より作成
佐敷一揆令蜂起之由就被聞召、浅野弾正*1・同左京大夫*2・伊藤長門守*3其外追々被遣候、然者兵糧并大豆*4之儀、弾正申次第可相渡候、其元留守之儀不可由断候也、
六月十八日 (秀吉朱印)
『豊臣秀吉文書集 五』4168号文書
(書き下し文)
佐敷一揆蜂起せしむるのよし聞し召されるについて、浅野弾正・同左京大夫・伊藤長門守そのほか追々遣わされ候、しからば兵糧ならびに大豆の儀、弾正申し次第にあい渡すべく候、そこもと留守の儀由断すべからず候なり、
(大意)
佐敷で一揆が起きたとの報せを太閤様がお聞きになり、浅野長政・同幸長・伊藤盛景ほか軍勢を次々と派遣されました。つきましては兵糧と大豆は長政の言い分通り渡しますので、そなたたちは留守をしっかりと勤めるようにしてください。
出陣している加藤清正の留守を預かっている者たちへ、次々と軍勢を派遣し、しかも十分な兵糧と馬糧を用意しているから、熊本にて梅北国兼らを食い止めるよう、秀吉が鼓舞している、そうした内容である。
軍勢、兵糧、馬糧とも十分な用意があるという自信満々なところは秀吉らしい。「高麗陣立書」*6では名護屋、壱岐、対馬、高麗にそれぞれ3~4名の船奉行を置き、「唐入道行之次第」*7では全軍を1万から2万5千人ずつに分けて日をおいて渡海するように命じている。戦略的には無謀と映るが*8、戦術的には計算したところが随所に見える。全国の通信・交通手段の整備や人員の徴発などもこの時期に行われ、また兵糧不足の者は申し出れば「兵糧米播磨・大坂においてお借しなさるべきこと」*9と米の大量蓄蔵を前提とした朱印状を発しており、豊臣政権の物流掌握の高さを物語っている。
さらに、渡海では「舟数あい揃え、人数渡海させ候よし、もっともに候、いよいよもって油断なく、少しもつかえ*10そうらわぬよう」*11と渋滞しないよう命じている。
人員、物量ともに充実しているので、出兵中とはいえ一揆鎮圧もたやすいことと言いたかったのだろうか。しかし、前にも述べたが豊臣政権にとっては許しがたい暴挙であり、山本博文氏が指摘されたように*12島津歳久を自害させざるを得ないほどの島津家存続の危機でもあった。