(前略)
一、あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入申候などゝいふ人候ハヽ、それハミなうそにて候ハん、と存候、其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候、其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿とり相ニて御入候、それへ、すけニ、あけちこし申候、山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京ヘと申候、我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候、ほんのふ寺といふところもしり不申候、人じゆの中より、馬のり二人いで申候、たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、(以下略)
『新修亀岡市史資料編』第二巻、46~47頁
(書き下し文)
ひとつ、明智謀反いたし、信長様に腹召させ申し候時、本能寺へ我等より先へ這い入り申し候などと云う人候はば、それはみな嘘にて候はん、と存じ候、そのゆえは、信長様に腹させ申すことは、夢とも知り申さず候、その折節、太閤様備中に、輝元殿取り合いにて御入り候、それへ、助に、明智越し申し候、山崎の方へとこころざし候えば、思いのほか、京ヘと申し候、我等は、その折節、家康様御上洛にて候まま、家康様とばかり存じ候、本能寺と云う所も知り申さず候、人衆のなかより、馬乗り二人出で申し候、誰ぞと存じ候えば、齋藤内蔵助殿子息、小姓ともに二人、本能寺の方へ乗り申され候あいだ、我等そのあとにつき、
(大意)
ひとつ、明智が謀反を起こし、信長様に自害させたとき、本能寺へわれわれより先に攻め込んだという者がいたならば、それはすべてウソだろうと思います。その根拠は、信長様を自害させるくわだてとは、夢にも存じませんでしたし、そのときはちょうど、太閤様は備中で、輝元殿と係争中で、その援軍として、明智軍は出発しました。山崎の方向へ向かうのだろうと思いましたが、意外にも、京ヘ向かうと云うのです。われわれ兵士たちは、現在、家康様が上洛されているので、家康様を討つのだとばかり思いました。本能寺というところも知りませんでした。そして、軍勢の中から、騎乗の者が二人出て話し始めました。誰かと思えば、齋藤内蔵助殿の子息と、その小姓が二人で、本能寺の方へ向かうとおっしゃるので、わたしたちはその二人についていきました。
明智軍の末端兵士が後年覚書としてしたためたものなので、記憶違いなどもあるだろう。
下線部からは、一兵士が、本来なら備中へ向かうべきところ、京都へ向かうと聞かされ、いったい誰を討つのだろうか、と疑心暗鬼に駆られながら行軍していた様子が読み取れる。たまたま今は京都にいるのは家康くらいだから家康を討つのだろうか、と兵士たちがささやき合っていたのだろう。
2020年11月1日追記
下線部赤字部分について、惣右衛門らを含む明智軍が「上洛中の家康への援軍に変更された」と解釈すべき、という報道に接した。逐語的には「(毛利攻めという)折り、家康様が上洛されたので、家康様とばかり思いました」という意味だが、結果から「家康様ばかり」を「討つ」対象と思い込んでしまった。史料を読むことのむずかしさを再確認する。