藤田達生ほか編『明智光秀』74頁、64号文書、ただし前掲書では「書状写」とするが、書き止め文言から「判物写」と判断した。
当庄之内、鵜川年貢米高頭之儀ニ付、打下之百姓存分有之由候、然者為庄内彼田地、早々苅上如約束可納所、聊不可有油断、并伊藤民部丞跡職之儀当納之事、田中内蔵介方江可相納候、少も於隠置者、可為曲事之状、如件、
(天正三年カ)
十月二日 光秀判
小松庄
惣中
(書き下し文)
当庄のうち、鵜川年貢米高頭の儀につき、打下の百姓存分これあるよし候、しからば庄内としてかの田地、早々苅り上げ約束のごとく納むべきところ、いささかも油断あるべからず、ならびに伊藤民部丞跡職の儀当納のこと、田中内蔵介方へあい納むべく候、少しも隠し置くにおいては、曲事たるべくの状、くだんのごとし、
*小松庄:園城寺円満院領だったがのち聖護院領になった。室町期になると後述の打下とのあいだでしばしば境相論がおきた。
「日本歴史地名大系・滋賀県」より作成
*鵜川:近江国滋賀郡鵜川村
*高頭:石高などの数量、数値。
*存分:考え、意趣。
*約束:きまり
*伊藤民部丞:小松庄住人か
*跡職:跡目と引き継ぐ財産
*当納:今年納めるべき年貢・諸役
*田中内蔵介:光秀の家臣、代官か
(大意)
小松庄のうち、鵜川村の年貢米合計のことについて、打下村の百姓が言い分があると聞いた。そうであるなら小松庄として鵜川村の田地に実った稲を、早々に苅り上げ、決められたとおり年貢諸役を納めるよう、少しも油断のないようにしなさい。また伊藤民部丞の跡職分の年貢所当分は、田中内蔵介に納めなさい。ほんの少量でもごまかした場合には、曲事である旨、以上の通りである。
「為庄内」(庄内として)とあるように、光秀は「庄請」制による支配を行っていたようだ。またこの文書に登場する村々は、長期にわたって堺目を争っていたらしい。「打下之百姓存分有之由」とあるように、年貢納入高をめぐる紛争が起きていたことがうかがわれる。
また、この文書に限っていえば、光秀は境相論の解決には踏み込まず、年貢諸役の納入を最優先していることがわかる。