日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

年未詳9月14日 東寺年預宛松永久秀奉行人喜多重政・瓦林秀重連署状(折紙)を読む

松永久秀被官については以下の論文がある。

repo.nara-u.ac.jp

 

知行地が空間的にどのように分布していたかを明らかにし、いわゆる「戦国大名勢力図」がいかに単純化されたものかを確認させてくれる。ああいった色分けがされるほど事情は単純でない。あくまでもモデル、概念図に過ぎない。

 

さて、久秀の別の被官について以下の史料がある。

 

 

湯那九郎兵衛田地吉田与三郎方へ令沽却、号徳政違乱之由候条、従久秀被差越上使当毛被苅取候処、重而麦を作候、言語道断之次第候、急度為御寺家被仰付、吉田与三郎ニ可被引渡候、恐々謹言

         喜多土佐守

   九月十四日     重政(花押)

         瓦林左衛門尉

             秀重(花押)

  東寺年預御中

             東寺百合文書イ函208号文書

http://hyakugo.kyoto.jp/contents/images/001/00308/img/0001/100_0.jpg

 

(書き下し文)

湯那九郎兵衛田地、吉田与三郎方へ沽却せしめ、徳政と号し違乱のよし候の条、久秀より差し越さる上使、当毛苅り取られ候ところ、かさねて麦を作り候、言語道断の次第に候、急度御寺家として仰せ付けられ、吉田与三郎に引き渡さるべく候、恐々謹言

 

 

(大意)

湯那九郎兵衛の田地、吉田与三郎へ売り渡し代金を受け取りながら、徳政と称して土地も代金も渡さないとの件ですが、久秀が派遣した使者が立毛検見を行ったあとに、当年の稲を刈り取り、裏作として麦を作るなどとは九郎兵衛はじつに言語道断です。かならず東寺として年貢納入を命じ、土地も吉田与三郎に必ず引き渡すように致します。恐々謹言

 

 

*号徳政違乱之由:湯那九郎兵衛が田地を吉田与三郎売り渡したが、勝手に徳政だと主張して土地も代金も我が物とする、私徳政。

 

*上使:領主から派遣される使者。「定使」と書かれることもある。

 

*重而麦を作:二毛作の裏作として麦を作り、その分の年貢も納めていない状態。

 

*急度為御寺家被仰付:宛所の東寺が荘園領主で、松永久秀が現地で年貢などを徴収事務にあたる荘官をつとめていたと思われる。

 

*吉田与三郎ニ可被引渡候:荘官として、吉田与三郎が主張する私徳政を無効にすること。

 

*喜多重政・瓦林秀重:ともに久秀の奉行衆。なお永島福太郎氏による瓦林の解説はこちら。

 

瓦林氏 - apedia