島津家文書447号によると島津義弘の分国は以下の通り。
誤差が大きいので、史料上の記述でグラフにした。
島津領国は、薩摩国半分、大隅国4分の1強、日向国4分の1弱で構成されていたことがわかる。
56万石に対しわずか1万石(1.7パーセントほど)程度であるが蔵入地、つまり秀吉直轄地があったこと、さらにその代官は石田三成と細川藤孝の2名だったとある。
詳細は「目録別紙有之」とあるので、どのあたりに蔵入地が分布していたのかこれだけではわからない。ただ、いわゆる「薩摩藩領」と薩摩国の行政区分は一致せず、また薩摩国のうちに秀吉直轄地が存在していたことも容易に想像できる。
さらに蔵入地の代官をひとりに任せず、わざわざ手間のかかる複数体制にしたいきさつも不明だ。ただ、秀吉が地頭・代官の「非分」を禁じたことは他の史料でも確認できる。この「地頭」は秀吉から領地を与えられた大名その他直属の家臣、「代官」は蔵入地を預かる者でほかに浅野長政も代官に任じられていたことから、徳川期のように大名と代官は明確でなく、兼任していたのが常態だった。
石田三成や細川藤孝、浅野長政らは大名であると同時に、蔵入地の代官をも兼ねていたわけである。
地頭・代官による非分とは、「不適切な」年貢、諸役を負担させ、百姓が逃散などして、生産が滞るようになる、ということである。佐々成政の肥後国人一揆などはもっとも避けたかった。取り過ぎてはいけないし、言いがかりをつけて暴力を振るうことも禁じていた。これは家康の時期の触にも見られる。
いわゆる「斬り捨て御免」は秀吉以後は禁じられていた。しかし、実際の社会はまだまだ自力救済の社会で、あちらこちらで「喧嘩」=私闘が繰り広げられていた。惣無事とは秀吉が「公認」した戦以外を私闘とみなし、これの行使を禁じたものだった。
おそらく、石田三成と細川藤孝を競合させ、「不正」をさせない方法だったのではないか。