多聞院日記天正10年6月5日の条に次の記事が見える。
(中略)安土ハ去四日ニ向州へ渡了、棹山へハ城ニワノ五郎左衛門・山崎源太左衛門入了、長浜へハ齋藤蔵助入了、筒井先日城州ヘ立タル人数今日至江州打出、向州ト手ヲ合了、順慶ハ堅以惟任ト一味云々、いかゝ可成行哉覧、
(大雨の記載略)
一、 慶禅子腹切了、未死歟云々、題目ハ不知、
(書き下し文)
ひとつ、さいわい禅子腹切りしおわんぬ、いまだ死なざるかとうんぬん、題目は知らず
(大意)
ひとつ、喜ばしいことに禅僧が腹を切った。いまだに息絶えていないそうだ。何が争われたのかは、わからない。
*慶:「字通」によればこの文字には「神判による勝訴、よろこび、いわう」との意味があるという。神判とは真っ赤に焼けた鉄を握り火傷していなければ無罪、そうでなければ有罪(これを鉄火起請といい現在でも神事として各地に伝わっている)とするものや熱湯に手を入れて同様に判定する(盟神探湯=くがたち)ものなどがある。
*禅子:禅の修行者、禅者。
*題目:取り扱われる材料、内容、基礎、根本、事件など。
多聞院英俊が本能寺の変直後に耳にしたうわさのひとつである。禅子と誰が、何を争ったかはわからない。鉄火起請でも行ったのであろうか。争いに負けて腹を切ったらしい。悲惨なことにいまだに息絶えていないとのうわさである。