上記のような文句をときどき見るが、「史学概論」を学んでいるのだろうかと不思議に思う。史学概論と銘打たれた書籍はいくらでもあるだろうに。
これまでのありとあらゆる出来事を「歴史上の事実」とするのに対し、なんらかの「歴史的意義」を見出したものを「歴史的事実」と考える。
ここにはすでに解釈が入り込んでいるのであって、無作為に抽出したものの「事実」の羅列が年表を構成しているのではないし、ましてや通史や教科書に書かれているわけでもない。
よく「偉人」という言葉が世間で使われるが、歴史学では「個人」と呼ぶ。偉人の意味は「立派な業績を上げた人」だが、「立派」という修飾語にすでに価値判断が含まれている。
そういえばむかし「価値判断からの自由」=Wertfreiheitという言葉を習ったことがある。
それはともかく実験なしに結論を述べたり、証明なしに定理と唱えたりできないことに似ている。
こういった問題は形而上学に属するのでブログ主には手に負えない。
さて
「史料に書かれていることがすべてではない」
=「史料にはある事実が書かれている」
=「史料に書かれていない事実もある」
つまり
「ある事実は史料に書かれていない」
という意味になる。
すべての事実
→ 史料に書かれているわけではない
→ ある事実は書かれている
(すべての事実)=(史料に書かれた事実)+(史料に書かれていない事実)
ただし
(史料に書かれた事実)≪(史料に書かれていない事実)≈(無限)
これだけのことだ。
そこに書かれている「ある事実」が「知りたい」ことである保証はない。「知りたい」ことが史料に書かれていることは奇跡に近いことなのだ。「史料に書かれた、ある事実」と「知りたいこと」はそもそもなんら関係のない独立した事象である。
上図で「実証可能、検証可能な範囲」からそれぞれの問題意識によって「歴史的事実」が抽出される。当然観察者によって「歴史的事実」はズレるし、普遍的なものでもない。
「反証可能性」が科学の条件であるという立場からは、検証可能性こそ歴史学の条件であるともいえる。
「知りたい」ことが史料に書かれていないから、「史料はすべて役に立たない、不要だ、読まなくていい」ということでもない。実験データで欲しいものが見つからない、といって投げ出す人はいるまい。
どのようにすぐれた仮説であっても、史料にもとづかないことには実証とはいえない。