興福寺に多聞院英俊という僧が書き残した日記がある。「多聞院日記」である。ベストセラー呉座勇一『応仁の乱』の主人公のひとり、尋尊が著した「大乗院寺社雑事記」と並び立つ、詳細な日記である。日記といっても私的なものでないことは同書200頁以下に説明がある。
さてこの多聞院日記天正20年12月15日の条に次のような記載が見える。(380頁)
去八日改元了、文禄ニ改旨京より注進在之
(書き下し文)
さる八日改元しおわんぬ、文禄に改むるの旨、注進これあり
(大意)
12月8日に改元があったとの知らせが15日分に記載されている。大和国まで都から知らせが来るのに1週間かかったのか、それとも英俊が失念していたのか、あるいは書き損じたのか、そのあたりはわからない。ただ、英俊は年末まで訂正をしたり、丁(頁)を改めたりせず、そのまま書き続けている。
年が明けてから、冒頭に
文禄二年癸巳(みずのとみ)
聴見録
多聞院日記
と書き、ついたちから書き始めている。ちなみに「元日」ではなく「朔日」とある。腰が痛むらしく、おつとめなどはすべて省略し、飯一杯と「一献」つまり酒一杯で済ませたようである。ただ「食事はいささかも相違なく」とあり、ふだん通りとある。「一年の計は元旦にあり」というわけでもないようだ。
翌二日には呉座氏の著書で有名な大乗院へ年始に出掛け、「朝飯一献例の如く」とあり、「餅」が登場する。秀吉が大陸へ出兵するころ、この寺では餅を元日にいただく習慣はなかったようだ。(382頁)
多聞院日記は以下からダウンロードできる。
天正20年12月15日の条は196コマ目、翌文禄2年1月は197コマ目