「大日本史料総合データベース」によると文禄3年12月28日「有馬湯山御算用状之事」という史料が残されている。このうち支出について見てみたい。
有馬湯山御算用状之事
一、弐百五拾石 文禄弐年分納物成
一、百五拾石 同三年分納物成
此外百石 薬師堂文禄三年ゟ御寄進
一、 六拾石 銀子拾枚天正廿年分
但壱枚付而六石五斗かへ
一、弐百拾石 銀子卅五枚文禄弐年分
但壱枚付て六石かへ
(中略)
右払(闕字)御朱印(闕字)御黒印、小日記何も請取申候、此日付以前払い方(闕字)御朱印御黒印其外小日記雖有之御算用ニ相立申間敷候也
文禄三年十二月廿八日長束大蔵(花押)
増田右衛門尉(花押)
(書き下し文)
有馬湯山御算用状のことひとつ、250石 文禄2年分物成納め
ひとつ、150石 同3年分物成納め
このほか100石 薬師堂文禄3年より御寄進
ひとつ、60石 銀子10枚天正20年分
ただし1枚について6石5斗替え
ひとつ、210石 銀子35枚文禄2年分
ただし1枚について6石替え
(中略)
右の払い、御朱印、御黒印、小日記いずれもうけとり申し候、この日付以前に払い方、御朱印、御黒印そのほか小日記これあるといえども、御算用にあい立て申すまじく候なり
(大意)有馬湯山の勘定の件
ひとつ250石は、文禄2年分の年貢として納めた。
ひとつ150石は、同3年分の年貢として納めた。
この2件のほかに100石は文禄3年より薬師堂への寄進分として免除する。
ひとつ、60石は銀で10枚天正20年分の年貢として請け取った。ただし銀1枚につき6石5斗換算とする
ひとつ、210石は銀で35枚文禄2年分年貢として請け取った。ただし銀1枚につき6石換算とする
(中略)
右の払い、朱印状、黒印状、小さな記録にいたるまですべて請け取った。この12月28日以前の日付の支出分、朱印状、黒印状そのほか小さな覚書が出てきたといっても、勘定に入れることはまかり成らない。
中略部分には「入」「払」(=支出)「過上」の内訳が書かれている。そのうち支出部分の割合を示したのが以下のグラフである。
「まめ」は馬の餌にあたる「大豆」であるが、合算されている。「こほち」とあるのは「毀つ」で、壊れた寺に10石ほど、また「湯山惣中」、つまり湯山村に100石ほど寄付している。一度年貢として納めたものを「下され」という行為によって村へ返していたわけだが、この秀吉の行動が何を意味しているかまではわからない。