日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「西は櫓櫂」と「海は櫓櫂」 承平5年11月9日器杢助宛朱雀天皇綸旨を読む  人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!

先日テレビで山の民を祖先とする名字のテレビ番組を見た。「山川藪沢の利は公私ともにせよ」とする律令制以来の原則が明治に入り否定され、国有化されるという、多くの入会地がたどったものと重なる。

 

そこで紹介された文書が、朱雀天皇綸旨とされる文書である。ちなみに「大日本史料総合データベース」によると、すでに刊行済みなのだが、この文書は収められていない。

 

この中に興味深い文言が見える。「西は櫓櫂の立つ程に」という文言だ。どこかで聞いたような・・・。とりあえず読んでみることにする。

 

なお、料紙は反故紙を漉き直した宿紙が使われている。宿紙については以前触れた。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

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https://myagi.jp/images/travel/eigenji/hirutani010.jpg

 

 近江州愛智郡小椋庄筒井

 轆轤師職頭之事称四品(平出)

 小野宮製作彼職相勤之所

 神妙之由候也、専為器質之統

 領諸国令山入之旨西者櫓櫂

 立程東者駒蹄之通程被免許訖

 者

天気所候也、仍執達如件、(擡頭)

  承平五年十一月九日       左大承(花押)

   器杢助

 

 

(書き下し文)

近江のくに愛知郡小椋の庄筒井、轆轤(ろくろ)師職頭の事、四品(しほん)小野宮製作と称し、かの職あい勤むるのところ、神妙のよしそうろうなり、もっぱら器質の統領として、諸国山入りせしむるの旨、西は櫓櫂の立つほど、東は駒蹄の通うほど免許せられおわんぬ、てえれば天気のところそうろうなり、よって執達くだんのごとし、

 

(大意)

 

近江国愛知郡小椋荘筒井、轆轤師職の統領の件、惟喬親王がお作りになったと名乗り、その職を勤めているのは神妙なことだという。ひたすらその能力を生かし、統領として、諸国の山へ自由に入ってよいとの仰せの内容は、東は馬で行けるところまで、西は船で行けるところまで、お許し下さるということだ。それが天子さまのご判断である。よってご下命の内容は以上の通りだ。

 

*愛智郡:近江国愛知郡

 

*四品:「しほん」親王の位階の一つ

 

*平出:「小野宮」惟喬親王に対して敬意を表すため、改行する文書の作法。一字分空ける「闕字」より上級。

 

*小野宮:惟喬親王

 

*器質:器量と資質

 

*者:「ていれば」「ていり」と読む。「~ということだ」の意。

 

*擡頭:敬意を表すため改行する(=平出)だけでなく、さらに各行より一字分または二字分上にあげて書く文書の作法。最上級の敬意。

 

*天気:天皇、主君などの意向。

 

*左大:「左大弁」この時期左大弁に任じられていたのは藤原扶幹。

藤原扶幹 - Wikipedia

 

全国どこの山でも自由に轆轤師が出入りできるという免許状である。

明治に入るまで、山野河海の利用は基本的に地元の慣行に委ねられていた。また、この轆轤師のように特定の免許を受けた者も自由に利用できた。上述したように、入会地もそうである。しかし、明治に入ると近代的所有権の確立により、私有地・国有地など土地の排他的利用が可能になる。所有者の明確化により地租が課され、その所有者が一元的に所有し、利用を決定できる権利である。その結果、これまで特定の技術を有力者の庇護のもと独占できる時代は終わり、職業を自由に選ぶ時代に変わっていく。しかし、職業選択の自由は、職業の確保を意味しない。相伝の家業を選択の余地なく受け継ぐか、保証はなくとも自由に選択するか、受け止め方はひとそれぞれであろう。

 

2018/02/05

補足の説明も書きました

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com