史料1 『新修亀岡市史資料編第二巻』40~41頁
和知衆知行高指出 片山丁宣家文書
(端裏書)
「日向守へ令□・・□」
当知行分一紙目録事
一、百七拾石五斗口升三合 片山兵内
一、弐十五石八斗弐升一合 地子方同人分
一、四百六拾七石四斗九升 出野甚九郎
一、拾五石九斗壱升 地子方同人分
一、九拾五石弐斗六升 粟野久次
一、弐拾三石二斗弐升 地子方同人分
右惣以上七百三拾三石五斗二升三合 知行分
同 六拾四石七斗三升一合 地子方分
惣都合七百九十八石二斗五升四合
天正九年五月十七日 片山兵内
康□(花押)
出野甚九郎
康勝(花押)
栗野久二(花押)
杉生山右衛門尉殿
*片山兵内・出野甚九郎・栗野久二3名が宛所の杉生山右衛門尉の被官にあたるのか、寄子なのか、それとも杉生山が「指出奉行」のような者にあたるのかこの文書だけではわからない。
史料2 『新修亀岡市史資料編第二巻』41頁
知衆侍・百姓人数指出 片山丁宣家
片山兵内進人数事
十五人 侍
百十人 百姓
以上百廿五人
出野甚九良人数事
廿一人 侍
弐百七十一人 百姓
以上弐百九十二人
粟野久次人数事
五人 侍
廿六人 百姓
以上卅一人
(天正9年カ)
六月廿一日
(宛所欠)
史料2から言えるのは以下の通り。
1.「侍」と「百姓」の2つの身分が成立していたこと。
2.この「百姓」も合戦に駆り出される上、同じ郷村に同居していたことから兵農未分離状態だったこと。
この2つの史料から知行高と軍役の比率を表したのが以下の図表となる。
天正9年6月2日に定めた光秀の軍役規定とは異なり、片山兵内の「百姓」動員負担比率が突出して重いが、粟野と出野の場合に限れば知行高が増えるほど軍役負担比率が重くなるという原則通りと言える。一方「侍」動員の比率は知行高と関係なく同じ割合とされている。この点も規定の馬の疋数と整合的である。また「百姓」と「侍」の動員数の比率は知行高が増えるにしたがい、「百姓」の占める割合が高くなる。すなわち軍勢の規模が大きくなればなるほど「百姓」に頼らざるを得ないことになる。言い方を換えれば戦国期合戦の主役は「百姓」であり、軍役を定めたちょうど1年後の出来事に参加した者の多くは「百姓」だということになる。