件の古文書だが、気になる点はまだある。「阿湖」姫の部分だ。女性の名前はことさら難しい。たとえば秀吉の正室は「おね」なのか「ねね」なのかいまだ定まらない。高台院と呼べばよいというわけでもない。権力トップの正室さえ呼称がわからないのだから、戦国大名もしくは国人クラスの姫の名前があのように書かれるものなのだろうか、という疑問が湧く。
そこで東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データベース」で検索してみると「おね」ではヒットせず、「ねね」で応永16年12月2日「かが」から「ねね」に「としより候ほどに・・・ゆつりわたし候」という譲り状1件のみがヒットしただけだ。
時期はかなり下るが伊達政宗の息女が「五郎八」姫であると今日ではよく知られているところだが、上記データベースで「五郎八」でも「いろは」でもヒットしない。
史料を1点見てみよう。
「伊達鑑」
まさむねそく女、江戸にをいてしうけんの事、
けい長十壱年午のとし極月廿四日、とく川かつさのすけゑちこのせうしやうたゝてるかうへ御しうけん、まさむねさくら田上やしきより、大手たゝてるこうへ御やしきへの御しうけん、紹高のかしま中ほとにて、御こしのうけ取わたしあり、御こしの御とも伊達あわの守しけさね、山おかしま、すゝ木いつみ、おく山では、この外拾人はかり、御とも被申候、からうにさしそへられ、ゑちこまてめしつれられ候ハ、せのうへたんこときつな也、
(書き下し文)
正宗息女、江戸において祝言のこと、
慶長十一年午の歳極月二十四日、徳川上総介越後少将忠輝公へ御祝言、正宗桜田上屋敷より、大手忠輝公へ御屋敷の御祝言、紹高のかしま中程にて、御輿の請け取り渡しあり御輿の御供伊達安房守成実、山岡志摩、鈴木和泉、奥山出羽、このほか十人ばかり、御供申され候、家老に差し添えられ、越後まで召し連れられ候は、瀬上丹後時綱なり、
(参考)
「古今武家盛衰記」十九 忠輝卿任官御婚礼
慶長十一稔(ママ)丙午十二月ハ、伊達越前守正宗ノ息女ト御縁組調ヒ、御婚礼也、
是慶長三稔(ママ)ニ縁組調フ処ニ、石田以下ノ奉行頭人、難題非法申シ掛ケ、世上騒動サセシ故ニ、婚姻延引シテ、今年漸ク入輿シタマフ、(下略)
*なお、中野等『石田三成伝』(2017年、吉川弘文館)第9章第1節は、様々な逸話が後世の創作であることを明らかにしているが、「古今武家盛衰記」は「栄達を極めた者は慎まないと失敗する」という教訓を示すものと位置づけている(496頁)。したがって、この縁組みに慶長3年の「創作」した逸話を忍ばせることで、より「運命的な」物語に仕立てた可能性もありそうだ。
「とく川かつさのすけゑちこのせうしやうたゝてる」に対して「まさむねそく女」とはあまりにひどい話だ。
ひのえうまといえば火災が多い年であり、婚姻や出産を控えるといわれているが、年末にもかかわらず祝言を行っている。つまりこのころは「ひのえうま」を避けるという習慣がなかったと考えられる