日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

長篠合戦当日発給細川藤孝宛織田信長朱印状を読む

長篠合戦については近年発掘調査なども行われ、見直しがされるようになった。そこでここで信長自身がこの合戦をどのように語っていたか、発給文書から読んでみたい。

 

秀吉が本能寺での出来事を知った直後、諸将に「信長は脱出して無事である」というニセの情報を流したように本人の言だからといって事実であるとは限らない。一次史料だからそのまま額面通り受け取ってよいというわけでないのだ。

 

引用は奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 下巻』29~30頁による。

  

 尚以、爰元之事、九郎左衛門可申候、

此表之様子、先書ニ申候、今日自早天取賦、数刻及一戦、不残敵討捕候、生捕已下数多候間、仮名改首注文自是可進候、自兼如申候、始末無相違候、弥天下安全之基候、仍鉄炮放被申付候、令祝着候、爰許隙明候条、差上候、旁以面可申展候、謹言、

   五月廿一日             信長(朱印*2)

     長岡兵部太輔殿 

(書き下し文)

 

  

この表の様子、先書に申し候、今日早天より取り賦り、数刻一戦に及び、残らず敵討ち捕り候、生捕已下あまた候あいだ、仮名(けみょう)改めの首注文これより進らすべく候、かねてより申し候ごとく、始末相違なく候、いよいよ天下安全の基に候、よって鉄炮放ち申し付けられ候、祝着せしめ候、ここもとすきを明け候条、差し上せ候、かたがた面をもって申し展(の)ぶくべく候、謹言、

 

 

なおもって、ここもとのこと、九郎左衛門申すべく候、

 

 

*表:最前線

 

*先書:3月22日付藤孝宛朱印状で大坂合戦(石山本願寺)にて軍勢を整えるよう指示しているが、その軍役規定の趣旨か。奥野著14頁参照。

 

*賦:「くばる」、軍役の割り当て。

 

 

*九郎左衛門:塙直政

 

*数刻:一刻は約2時間

 

*生捕已下数多:「生け捕り」は捕虜ということになるが、近代国際法に守られた捕虜とはまったく異なることは念頭に置く必要がある。「已下」ということは「生け捕り」以下の扱いを受ける者がいたとも考えられる。当然人身売買の対象になったものも相当いたであろう。

 

*仮名改:仮名(けみょう)は烏帽子親につけてもらった名前で、諱の対義語。通称、呼び名。改めは調べること。現在でもそうだが、日本では名前を呼ぶことを失礼とする習慣がある。貴人を「御屋形様」「御館様」とその人が住む場所で呼ぶ場合も多い(ときどき「親方様」という誤変換を目にするが、同じ「おやかた」でも意味はまったく異なる)。また官職名で呼ぶことも多いので、それが誰を指すのか戸惑う場合も少なくない。さらに百姓でも襲名の習慣があるので同じ「○○左衛門」でも同一人物とは限らないので面倒である。現代でも歌舞伎役者が襲名するので正直つらい。市川亀治郎で覚えてしまったので、顔は思い出せても現在の名前を知らないので話題にできない。「五代市川團十郎」という呼び方で区別するようだが、そこまでメモリに余裕はない。

 

*首注文:注文は古文書学用語で人品のリストをいう。ここでは討ち取った首のリストのこと。

 

*鉄炮放:鉄炮隊。この文言は数日後の藤孝宛の文書にも見える。後世の史料によって「三段撃ち」のイメージが伝えられた文脈で読めば、信長が派手に大量の鉄炮で敵を総崩れにしたと解釈しても不自然ではない。後日紹介するが5月26日付藤孝宛黒印状に「即時切崩、数万人討果候」と信長自身話をかなり盛っているので、長篠合戦図屏風とあわせるとあのイメージを払拭するのはかなり難しいといえる。

 

*旁:あなた様という意味の敬意表現

 

*(朱印#2):奥野高廣氏による織田信長朱印分類によれば(2)型とされる。印文は「天下布武

 

*長岡兵部太輔:細川藤孝

 

(大意)

 

こちらの最前線の様子は、先書で伝えましたように、今日早朝より軍勢の割り当てを行い、数時間一戦交えました。残らず敵を討ち取り、生け捕り以下あまたの獲物を獲得しました。仮名改めの首注文をお送りします。かねてから申し上げていますように、処理は滞りなく進めています。いよいよ天下安全の基礎ですから、鉄炮隊を命じられたことうれしく存じます。こちらは時間を作ります。あなたさまへ書面をもって申し上げます。謹言。

 

追伸 なおわたくしのことは、塙直政が申し上げます。

  

 

この合戦の勝利を「天下安全之基」と呼んでいるところは、単なる領土拡張の戦いでなく、自身を「公儀」権力と意識したのかも知れない。