日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正5年12月5日下村玄蕃助宛羽柴秀吉書状の上月城戦況報告について(中)

 

 

(承前)

 

 

4.問いの立て方、議論の進め方

 

日本語圏では「なぜ~は素晴らしいのか」という問いを立てることがよく行われるが、この言明は二つの問題を孕んでいる。ひとつは「なぜか」という問いは因果関係を明らかにすることを暗黙の裡に想定しており、相関関係などを持ち出して「事足れり」とするわけにはいかないからである。時間的な前後関係だけで因果関係にあると判断するのは論外だが、社会現象の因果関係を誰の目にも明らかにすることは至難の業である。そうした弱点を念頭に置きつつ微に入り細を穿って漸進的に何かを掘り当てる、そうした作業の積み重ねの上に歴史学は成り立っている、それを忘れてはならない。

 

最近では相関関係にないことすらあたかもそういった関係にあると錯覚させる(錯覚している?)悪質な事例も見かける。いかにも近しい関係にあるかのように装うそれは相姦関係とでも呼ぶに相応しい。

 

二つ目は「素晴らしい」というのは価値判断であって、ひとそれぞれ判断基準が異なるので説得力に欠ける点である。「なぜイギリス料理は不味いのか」という問いは愚問中の愚問で「旨い/不味い」など文字通り「好み/嗜好」の問題に過ぎず、それに対する説得力のある答は見つかるまい。またきわめて失礼でそういったネタは「ポーランドボール」の範囲内に留めたい。

 

 

また議論において規範的な「~すべし」といった結論に辿り着くこともできない。事実命題(sein)から規範命題(sollen)を導き出せないからである。そこから教訓を得ようとすること自体を否定しないが、歴史学の守備範囲を大きく超える話で、市民一人ひとりが向き合うべき問題である。

 

行論中後世の語彙をあてて説明することも非歴史的である。たとえば「インセンティヴ」とやらを唐突に持ち出しても、それらを意味する概念が当時存在したのか否かを明らかにしなければならず、それらを示す言葉や行動原理などを示す同時代史料を引用する必要もある。さらにその「インセンティヴ」がいかなる過程でいかなる結果をもたらしたのかを説得力あるかたちで説明せねばならない。マックス・ウェーバーは『プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神』においていみじくも述べている。

 

 

 

報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方が*1を動かす刺激だった(中略)まさしくこれは「伝統主義」と呼ばれるべき生活態度の一例だ。人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとき、至る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調(ライトモチーフ)だった

 

岩波文庫版64~65頁、下線・強調などは引用者

 

 

 

この「彼を動かす刺激」が今日の「インセンティヴ」であることは明白だが、意味するところは180度異なる。近現代的な概念を安易に歴史に持ち込むと足をすくわれる結果となる。意味不明なカタカナ語を魔法の杖のごとく振り回すことは厳に慎みたい。

 

「インセンティヴ」の歴史と性格
マイケル・サンデルは『それをお金で買いますか』(ハヤカワ文庫、126~130頁。2014年)においてアダム・スミスらの古典経済学に「インセンティヴ」が登場しないこと、また経済学用語としても1980~90年代は目立つこともなかったを指摘する。OEDでも経済学の文脈で使用されたのが1943年を初出としていると。すなわち経済学者がビッグブラザーのような支配者として人民を導く「強制力」であり、内面化させた権力そのものにほかならない。アダム・スミスのいう「見えざる手」とはその性格を大きく異にすると指摘しているおり、ブログ主も大いに共感する。

 

 

5.前回の補足

 

下村文書には件の文書のほかに興味深いものが残されている。そのうちのひとつを引用する。

 

 

 

兵粮米二百石、うち百四十石長浜町中、六十石は八幡庄内中より関ヶ原*2まで相届く*3べく候、一石について駄賃として四升五合ずつ遣わすものなり、

 

  五月十五日*4  秀吉(朱印)

 

   長浜町中

   八幡庄中

 

『大日本史料』11編7巻308頁、書き下し文・下線は引用者

 

 

 

長浜町や八幡庄宛に兵粮米を輸送せよとの文書が発せられており、それが「下村文書」として伝わっていたことは前回述べた下村玄蕃助が兵粮米の調達に関わっていた武器商人、死の商人だったことを明確に示している。

 

以下は「秀吉 長浜町」を「大日本史料総合セータベース」で検索した結果である。下村文書と下郷共済会文書が混在しているが、前者が後者の文書群として吸収される前の姿を留めていたのだろう。

wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp

 

 



(次回へ続く)

*1:農業労働者、引用者注

*2:美濃

*3:届ける

*4:天正12年、1584

天正5年12月5日下村玄蕃助宛羽柴秀吉書状の上月城戦況報告について(前)

 

 

大河ドラマで上月城の惨劇をめぐる演出が様々な議論を呼んでいると仄聞した。「歴史は大衆のアヘンである」とは私自身の造語だが、アヘンは強力な鎮痛作用を持つ一方、幻覚や妄想などを引き起こす恐ろしい副作用を持っている。たとえば以下の記事では上月城の出来事を「後世の誇張」とするが行論中明らかにされるよう古代妄想、いや中近世妄想に過ぎない。また地域の歴史を踏みにじる行為でもある。平泉澄はかつて「百姓に歴史がありますか、豚に歴史がありますか」と放言したが、この「「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している」記者も平泉同様の歴史観の持ち主なのだろうか。

 

                                  https://serai.jp/hobby/1269639


ここではドラマの演出などについては言及しないが、この「磔・串刺し」が受け容れがたい、史実であってほしくないといった向きも見られるので、ここでは少し詳細に当該文書を読んでいきたい。


まず写真を見ておこう。

 

                                        『近江長浜町志 第1巻』より引用

例の部分を拡大したのが次の図である。

 



調理において下拵えが欠かせないように、史料を読む前には十分な下調べしておくことが必要である。以下その下調べに長時間を費やすが、historyの語源「ヒストリア」の意味するところが「探求、研究」だという点を想起されたい。

 

 

1.まず文書とは何か

 

文書(もんじょ)とは何か、一般に次の4つを兼ね備えている手書きのものをいう。

 

  1. 発給人(差出人)
  2. 受給人(受取人)
  3. 年号月日
  4. 発給人から受給人への何らかの意思表示(タイトルおよび本文)。

 

したがって日記などの古記録や後世に書かれた編纂物などとは異なるものであることを押さえたい。

 

また下書きである「案文」や「土台」(draft、推敲の跡がある)、それを完成させ相手に実際に発給した「原本」(original)、それと同時に作成された「副本」(謄本)、別人の手によって書写された「写」(副本、写ともにcopy)に分かれる。副本と原本の場合は割印などが捺される場合もある*1

 

手紙はもちろん領収書も立派な文書である。特に領収書はカーボンコピーの複写を支払った者に渡し、原本は発行した側が保管する。これは改竄を防ぐための工夫だが、近年これを知らずに金額を書き換えてしまう輩もいるらしい。さらに行政文書も発給者と受給者(関係各位も該当する)が明確で文書(もんじょ)に該当する。

 

文書の受発給は意思の疎通同様、発信した瞬間当人の意思を超えて誤解の可能性を常に孕んでいる。ましてや当時の状況や社会構造などをよく知らぬわれわれ後世の人間にとってはなおさらである。その点常に念頭に置かねばならない。

 

 

さて、第4次中東戦争時、米軍は「デフコン3」という極めて緊張度の高い防衛体制に入った。イスラエルとエジプトの間で核使用が取り沙汰されたためである。キューバ危機の教訓から設置されたホワイトハウスとクレムリンを結ぶホットラインはブレジネフ、ニクソン双方の薬物・アルコール依存によって機能不全に陥った。このときソ連がアメリカに最後通牒を突きつけようとした下書きが残されている。実際にはずっと穏やかなものが通告されたが、この下書きによってソ連は核戦争も辞さずという結論に至ったのち方針転換がなされたことが明らかになっている。もちろん第1次石油危機に怯えていた当時の人間に知る由もない。

 

このように「案文」や「土台」には思わぬ本音が記されている点で原本には書かれていない情報が記録されているのでそのような意味においても重要な史料となる。

 

なお由緒を正当化するために作成された偽文書について今回採り上げない。なお偽文書には発給者、受給者とは別に贋作した者がいる。その意図や効力、実際に発揮したであろう効果はまた別の歴史を知る手掛かりとなる。なおある文書がもたらした「結果」から発給者の「意図」を読み取ろうとするのは問題がある。「意図せざる結果」に至ることが歴史上には無数にあるからだ。たとえば20世紀の冷蔵技術を家庭に普及させたフロンは当時「夢の化学物質」と呼ばれた。しかし1980年代からオゾン層破壊の原因であることがわかると「大量破壊兵器」呼ばわりされるようになった。オゾン層破壊が「意図せざる結果」であることは論を俟たない。

 

 

 

2.下村文書、下郷共済会文庫文書とはいかなる文書群か

 

次は受給人である下村玄蕃助は何者かという点に注目する。これは文書に書かれた内容を「誰にいかなる目的で」伝えようとしたかを明らかにする上で重要である。巷では本文の文言にのみ注目する余り、文書の全体像が捉えきれない、あるいは見ようとしない例が後を絶たない。「木を見て森を見ず」の喩え通り、そもそも文書とは発給人が受給人に対して何らかの意思表示をするものという原点に立ち帰ってみれば、これは無視できない

 

下郷共済会編『長浜案内』(1917年)によれば、下村玄蕃助は長浜町の「十人衆」と呼ばれる「名家」で、特に賤ヶ岳の戦いにおいて「あるいは軍にしたがい、あるいは糧食の供給などに功労ありしなりによると云い」*2とあるように戦国大名の御用商人のような存在だった。「軍にしたがい」という点は人商人としての性格を匂わせるがここでは踏み込まない。

 

秀吉が今浜(長浜)に城を構えたとき城下町は49ヶ町あり、それを10組に分け各組ずつ宮部五郎左衛門、西村甚六、下村番助*3、田辺九太夫、樋口次郎蔵、大依主馬、川崎定之進、安藤九郎右衛門、吉川三左衛門、今村藤右衛門の十家を町年寄に定めた。これが先述の十人衆である。これら名家は時代が下るにつれ絶家し、吉川、下村、川崎の三家のみが明治維新を迎えることができた*4。ただ戦前の紳士録の類いには下郷伝平も「長浜十人衆」のひとりとするがここでは措く。

 

元禄8年(1695)の「長浜五拾弐町」には下村玄蕃助の子孫「西本町肝煎 下村藤右衛門」の名前が見える*5。藤右衛門は妻、弟、妹といった家族のほかに下男2名、下女1名を抱えている、安良城盛昭がいうところの「家父長制的奴隷制経営」にあたる大家族を擁していた。

 

以上のことから文書の請取人下村玄蕃助は食糧や武器などを秀吉軍に供給し、町屋敷年貢を免除された豪商で、彼を含めた子孫も武士化せず長浜町に残り続けた有力な町人だったといえる。戦争は戦闘員や従軍する非戦闘員だけで成立するものではない。社会全体がそれに耐えうるような構造を持っていた、あるいは戦時に適応していったと見るべきだろう*6であり、。ここに下村玄蕃助のような人物のレーゾンデートル、すなわち存在理由がある

 

                市立長浜城博物館『常設展示』64頁、1983年より作成

 

一方、下郷共済会は教育・慈善・救済を目的として下郷伝平によって設立された財団法人である。下郷は明治29年(1896)に25歳にして近江製糸株式会社の社長に就任した。その傍ら長浜町議会議員、同町長を経て明治23年(1890)には多額納税者として貴族院議員となった地方名望家とも篤志家ともいうべき立志伝中の人物である。

 

               長浜市教育委員会『長浜先人誌』第2輯、48頁、1951年

彼は石器や土器、古美術品、古文書などを蒐集し、共済会文庫に展示し、あたかも私立博物館の様相を呈していたという。

 

3.伝存状況

 

古文書には伝わってきた事情がそれなりにある。戦国織豊期の文書は後世茶室の床の間に飾る装飾品として重宝された。したがって軸装するときに前後を裁断することで充所が欠落していたり、本文が読めないことも多い。それらは美術品として鑑賞する、あるいは茶室の雰囲気を飾るために二次利用として活用された訳であるが、諸事情により売却されることも多い。

 

近代に入ると下村家の足跡は途絶えがちになり、大量にあった下村家文書はその際売却されたとみられる。それを買い戻したのが下郷伝平だったのだろう。こうして下村(家)文書は下郷共済会文庫所蔵の文書となったものと考えられる。

 

やまびこ社編『長浜・湖北 (わがまち発見 ; 6)』49頁、1988年、リブロポートより引用

 

(次回に続く)

 

 

*1:「裏書き」も料紙の継目の裏に花押などを据えたことから「文書の内容を証明する」の意味になった

*2:120~121頁

*3:玄蕃助カ

*4:『長浜案内』120~121頁

*5:『近江長浜町志 第4巻』14頁

*6:藤木久志はこうした中世社会を「苛酷な自力救済の社会」と呼んだ

19世紀末小作農の家計

 

 

前回、前々回に引き続き「如何にして生活すべき乎」から「農業」の代表としてあげられている夫婦二人で営む小作農の家計を見ておきたい。あくまでも目安でしかないが、それでも農村経済の一面を垣間見る史料として採用した。

 

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田畑と屋敷地は小作地で屋敷のみ所有している、雇人なしの夫婦二人で田地5反、畑地6畝を切り盛りする事例である。

 

 

図のAが総収穫量、Bが小作料*1、Cが食用とする米や村入用、肥料といった必要経費、Dがそれらを差し引きした残りとなる。Dでは初期費用として米5俵、麦6俵がカウントされている。食用とする米は4:6なので残り1俵(4斗)は種籾に充てる。ややはっきりしない記述もあるので大雑把にこのように収支を分けてみた。

 

小作米は「作り分け」と称しもともとは五分五分だったのが「中々近来作り分けなどということは夢にも出来ず一体に小作米の増加する今日なれば*2近年は小作料率が上昇傾向にあると記している。この時期の水稲耕作の反収(1反当たりの収穫量)はおおむね2石内外なので、小作米1反当たり1石3斗は年間収穫量の65パーセントにあたる。この諸年貢、つまりBは地主の収入となり、土地所有者である地主が地租を納める。したがって小作人の家計に地租負担は表向き無関係となる。

 

 

基本的な収支が米単位で行われていることが分かる。金円は村内の支出を支払ったあとはじめて米相場で換算される。現在のわれわれからすれば不思議なことかもしれないが、農村では必ずしも金円が生活に必要だった訳ではなかったことを確認しておきたい。またDの晩酌では1日5勺、すなわちお猪口一杯だったことも重労働の割になんともわびしいものだったことを物語っている。

 

 

 

*1:「年貢」と呼んでいた

*2:155頁

19世紀末東京市内の大工の家計について(続)

 

 

前回取り上げた大工の収支をもう少し詳しく見てみたい。

 

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本史料を一覧すればわかるように、稼業は産婆、小学校経営者、差配人、煙草屋、高等文官など実に様々であって収入も「祝儀」、「俸給」、「揚がり」、「月謝」、「利益」など多岐にわたっており、これらを賃労働の対価としての賃金(wage/Lohn)と呼ぶことは誤りである。また貸船屋では雇傭した楫子=かじこ、船頭に支払う賃金が支出として計上されている点も見逃せない。すなわち本書で採り上げられているもののほとんどは資本をわずかながらも持ち独立した小経営、すなわち小資本家(petite bourgeoisie)であって賃労働者の家計ではない。

 


本書の「序文」に「社会生活の真相究めんとする者の好材料たらん」とあるが、ここから見出せる19世紀最末期の社会は「資本主義的生産とそれに併存する諸形態」によって構成されていたといえる。すなわち機械制大工場をメインとする産業資本に併存する小経営ウクラードの併存である。

 

さて例の大工の収支を見ていこう。

 

 



食費と家賃など必需品を除く「晩酌」に11%、夫婦の浪費に23%とあわせて24%にも上る支出がある。これを節倹すれば「赤字5%」ということにはならないはずだが、これが止められないらしい。

 

浪費についてこう記している。

 

 

 

職人などというものは一体石部堅吉*1という堅情(かたぎ。職人気質のかたぎ)のものは少なきものにて、この親方も時々は微酔(ほろよい)機嫌の千鳥足にて鼻歌を唄いながら出掛くると、終には品川または洲崎などに流れ込み、女房の顔を膨らすこともあり

 

 

 

 

東京市内と品川、洲崎の位置は下図の通りである。

 

                                    『日本歴史地名大系 東京都』より作成


品川、洲崎は遊廓であり、規模は洲崎は新吉原に次ぐ、品川も新宿と並ぶ規模を誇っていた。

 

                           川崎正子『公娼制度撤廃の是非 補再版』(1927年)より作成

この親方はこうした遊廓に通っていた。たとえ赤字になってもである。こうした金銭感覚が大工の平均的な生活様式だったことは注目に値する。

 

 

*1:石部金吉ともいう。石と金属で出来たような金銭や女色に心を迷わされない人

19世紀末東京市内の大工の家計について

 

数年前ある書籍の読了後、怒りにも似た感情が湧き出ることを禁じ得なかった。引用された史料の読み方がおかしいにもかかわらず、それを数値計算で糊塗していたからだ。時代背景を理解していないがゆえに見逃すべきでない論点も多く、当然計算にも問題があった。その書は処分してしまったので手許にない。したがって具体的な論点を批判するようなことはせず、数値だけを弄んでも社会構造をあきらかにできるわけではないことをここで示す。

 

取り上げる史料は以下のものである。1900年、(明治33年)19世紀最後の年に刊行された職種別に収入と支出を挙げたものである。「序文」には「如何にして生活すべき乎、これ千古の疑問なり。貧者にして富者たらんとするには如何にして生活すべき乎(中略)新たに職業に就かんとする者の水先案内人たるはもちろん、社会生活の真相究めんとする者の好材料たらん*1とあるように、19世紀最末期の人々の具体的な生活像や社会構造が垣間見える好材料といえる。

 

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今回俎上に載せる史料はその書でも引用されている上記部分である。本文の内容を順に追ってみよう。

 

1.親方と女房、子ども一人、「年季小僧」2人の合計5人家族である。ここで「小僧」とは一人前でない修行中の者で、親方、すなわちマイスターに技術を教わるために様々な雑用をさせられる十代前半の男子*2を指す。文中では「五人家族」とするがこの二人は親方ともその女房とも血縁関係になく、その意味においては赤の他人である。しかし彼らは徒弟として親方と寝食を共にする

 

2.毎月の「入り用」すなわち支出は米7.5円、炭・薪・油・味噌・醤油などに5円、「菜代」=おかずの費用が4.5円、「雑用」=雑費に5円、親方の晩酌の酒肴代4.5円、家賃6円でこれを合計すると32.5円は毎月必ずかかる。そしてこの親方は時には「洲崎」*3や「品川」*4といった貸座敷*5へ繰り出すこともあったので女房はおかんむりとなる。そこでやけを起こした女房も負けずに浪費する*6この夫婦の浪費に10円。これを前の32.5円に加えると43円余りとなる。

 

3.親方の手間賃*7は1日0.85円なので1ヶ月25.5円*8になるはずだが、二日酔いだの付き合いだので5日は働けない。よって月に25日働いて0.85*25=21.25円である。また二人の奉公人のうち一人は半人前なので、手間賃を21.25/2=12円程稼げる合計33円余りとなる。さらに親方の夜業(副業)で6~7円の収入があるも、支出43円余りに対して3円ほどの赤字となる。時には「典物」つまり質草を入れて借金して凌ぐこともあるが、夫婦とも節約してなんとか難しいなりに家計をやりくりしている。しかも休みは月に5日しかない。

 

4.二人の小僧に「仕着」とわずかばかりの小遣い銭をやらねばならないので、「入るを量りて出るを制す」のごとく稼ぎを増やしかつ倹約せざるを得ない。

 

以上のようにこの大工の家計はときには典物を入れて借金しながらなんとか生計を維持しているという訳である。

 

ここで押さえておきたいのが親方の「手間賃」は賃労働者のように資本家に雇傭されて受け取る賃金*9ではないことである。彼は独立した経営者で必要な道具も自前で用意している。そして親方として仕着と小遣いを奉公人に支給している。「手間賃」という言い方は近世のそれを受け継いでいるだけで、たとえばバカボンのパパのような植木職人のあるいは個人経営の理髪店の働きぶりを思い浮かべればいい。小僧も半人前ながら親方の作業を手伝っているのか「手間賃」を受け取っている。この家計の概要を図示すると以下のようになる。

 



 

ここで問題となるのが小僧2の手間賃が彼自身のものではなく親方の稼ぎと合算される点である。ここが徒弟制度ならではのカラクリである。小僧、すなわち奉公人は親方から技術を授けてもらう代わりに親方の命令に常に従わなくてはならない。したがって小僧2の労働の対価である「手間賃」が親方の収入に合算されてしまうのである。

 

*1:太字は引用者

*2:女中奉公もあるので必ずしも男子という訳ではないが、技術を身につける徒弟制度は主に男性に限られる

*3:東京府南葛飾郡、1958年まで「洲崎パラダイス」と呼ばれるほど有名な遊郭だった

*4:同荏原郡

*5:遊郭

*6:ここで親方が貸座敷などへ通うことは倫理的に問題とされていない。また女房が怒っている理由が浪費に対してなのか女遊びゆえなのかも判然としない

*7:教員は「給料」、高等文官は「俸給」、職人は「手間賃」と使い分けている点も見逃せない

*8:085*30=25.5、つまりひと月30日労働でという前提

*9:wage、Lohn