日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年7月8日立花宗茂宛豊臣秀吉朱印状(刀狩令)2/止

 

 

<史料1>

 

(書き下し文)

 

(端裏書)

   (貼紙)

「 「太閤刀狩の御朱印」         羽柴柳川侍従*1とのへ  」

 

    条〻

 

、諸国百姓ら、刀・脇指・弓・鑓・鉄炮、そのほか武具の類所持候こと、かたく御停止に候、その子細*2は、入らざる道具*3相蓄え、年貢所当を難渋せしめ、一揆を企て、自然給人*4に対し非儀の動をなす族、もちろん御成敗あるべし、しからばその所の田畠不作せしめ、知行潰え*5になり候あいだ、その国主・給人・代官等として、右武具ことごとく取り集め進上致すべきこと

 

、右取り置かるべき*6刀・脇指、費え*7にさせらるべき儀にあらず、このたび大仏御建立候釘・鎹に仰せ付けられるべし、しからば今生の儀は申すに及ばず、来世までも百姓相助かる*8儀に候こと、

 

、百姓は農具さえ持ち、耕作をもっぱらに仕りそうらえば、子〻孫〻まで長久に候、百姓御憐れみ*9をもって、かくのごとく仰せ出だされ候、まことに国土安全、万民快楽の基なり、異国にては唐尭のその上*10、天下を撫で守りたまい、宝剱*11利刀*12を農器に用いるとなり、<本朝にては試しあるべからず>、この旨を守りその趣を存知、百姓は農桑を情*13に入るべきこと、

 

右の道具きっと採り集め進上致すべし、油断あるべからず候なり、

 

   天正十六年七月八日*14(朱印)

 

(三、2556号。なお<>内は他文書から補った)

(大意)

 

「 「太閤秀吉の刀狩令」          立花宗茂殿」

 

一、、全国の百姓らが刀・脇指・弓・鑓・鉄炮、そのほかの武器のたぐいを持つこと、厳しく禁じるところである。なぜかといえば、不要な武器を集め、年貢・所当の納入を手こずらせ、一揆を企て、もし給人に対して謂れのない軍事行動を起こす者は、もちろん秀吉様が成敗するところである。したがってその所の田畠を不作にし、知行地潰れなるから、その国主・給人・代官等として、右の武具すべて没収し秀吉様へ進上するように。

 

、右の没収して集めた刀・脇指は、無駄にさせるつもりはない。このたびの方広寺大仏建立する釘・鎹にするように命じられるはずである。したがって今生は言うまでもなく、来世までも百姓は安穏に暮らしていけることになる。

 

、百姓は農具さえ持ち、耕作に専念すれば、子〻孫〻まで永遠に生活ができるのである。百姓への御慈悲の心をもって、このように仰せ出されたのである、実に国土安全、万民快楽の基礎である。異国においては唐尭のむかし、天下を鎮撫し、宝剱利刀のたぐいを農器に用いたそうである。<本朝においてその試しがあったことはない>、この旨を守りその意味するところをよく知り、百姓は農桑に精魂込めるべきである。

 

右の道具きっと採り集め進上すること。けっして油断してはならない。

 

 

刀狩令は島津家、立花家をはじめ大名のみならず寺社にも発給されているが、漢字仮名遣いや文言などに多少異同と脱漏が見られる。その点については山本博文『天下人の一級史料』*1539頁の一覧表を参照されたい。同上書「第一講刀狩令」は古文書学的検討を行っていて、本ブログもこれを参考にした。<>内は立花宗茂に充てたもののみに秀吉の右筆が書き漏らしたようで、これを他文書から補った。なぜ補ったかのといえば秀吉の自信がみなぎっているからに他ならず、書き損じたままでは秀吉流のレトリックが完成しないからである。請取人である宗茂は出来損ないの文書を読まされたことになる。

 

同日に発給された海賊禁止令と刀狩令の充所一覧を見てみよう。

 

Table. 海賊禁止令・刀狩令充所一覧

史料の残存状況によるので、この表からただちにある傾向を読み取ることはできないが、海賊禁止令と異なり畿内近国の寺社にも発給されている。同日発給だからといって必ずしもセットで考えなければならない、というわけでもなさそうだ。

 

①に「年貢所当を難渋せしめ、一揆を企て、自然給人に対し非儀の動をなす族、もちろん御成敗あるべし」と年貢所当の納入を拒み、武力行使に出る者は成敗すると明記されているように、刀狩令を「大仏殿建立にことを寄せて」という俗説が誤りであることがわかる。また下線部の「国主・給人・代官」のヒエラルヒーは次のように書き改めねばならない。

 

Fig. 刀狩令における国主・給人・代官

 

次の②で釘や鎹に用いるので、現世はもちろん来世まで「百姓相助かる儀に候こと」とする。百姓の生活が成り立たねば武家も生活できないことを説いているわけである。いたずらに苛斂誅求に走る領主は佐々成政のように成敗の対象となるのだ。

 

③では「百姓御憐れみをもって、かくのごとく仰せ出だされ候」と百姓への「慈悲深い思い」から発布したと述べている。これを額面通りに解するのはいささかナイーブに過ぎるが、「国土安全、万民快楽の基なり」と「万民快楽」を謳う政策は織田政権に見られない特徴である。しかも本邦初のことだと自画自賛している点も見逃せない。

 

豊臣政権がこれ以後も戦争を続けたことは周知のことに属するが、私戦の禁止と「惣無事」実現のために軍事力を行使するというアンビバレントな政権であることだけは確かであろう。

 

 

さてこの刀狩りへの反応としてよく引用される『多聞院日記』7月17日の条には次のようにある。

 

<史料2>

 

一、天下ノ百姓ノ刀ヲ悉取之、大仏ノ釘ニ可遣之、現*16ニハ刀故及闘諍*17身命相果ヲ為助之、後生*18ハ釘ニ遣之万民利益理当ノ方便ト被仰付了云々内證*19ハ一揆為停止也ト沙汰*20在之、種〻ノ計略*21

 

(『増補続史料大成 多聞院日記 四』137頁、臨川書店)

 

(書き下し文)

 

一、天下の百姓の刀をことごとくこれを取り、大仏の釘にこれを遣わすべし、うつつには刀ゆえ闘諍に及び、身命相果つるをこれを助け、後生は釘にこれを遣わし万民の利益の理わりを当てるの方便と仰せ付けられおわんぬと云々内證は一揆停止のためなりと沙汰これあり、種〻の計略なり

 

 

(大意)

 

一、全国の百姓の刀をすべて没収し、これらをすべて大仏の釘に使う。現状はつねに刀を帯びているからすぐに腕尽くで解決しようとし、命を落とす百姓が多いのを助け、後の世は大仏の釘となり万民が利益を得るとの方便で仰せ付けられたという噂だ。内心は一揆を起こさないようにするためだという評判もあり、関白はいろいろ計略をめぐらしているに違いない。

 

 

下線部⑥は刀狩令の「本音」を多聞院英俊が見抜いたものとされるが、下線部①に「一揆を企て」とあるように明記されている。また⑤によれば彼は「仰せ付けられたのだという噂だ」としているので、彼自身が原文を読んだ感想ではなく見聞きした世評を記したととらえるのが素直な解釈であろう。

 

また、下線部④は当時の百姓がつねに刀を帯び、すぐ実力行使に出て命を落とす者が多いという現状を記したものと解すべきであろう。百姓の、すぐに血が上る性格は他史料にも見られ、昭和期まで続く村の慣行と言える。

*1:立花宗茂

*2:理由

*3:武器

*4:領主、豊臣大名

*5:知行地の財政が苦しくなること

*6:保管した

*7:無駄

*8:苦労しない

*9:慈悲の心

*10:カミ、時間的に古い時代を「上」という。「上古」など

*11:宝として大切に秘蔵する刀剣

*12:よく切れる、鋭利な刀

*13:

*14:グレゴリオ暦1588年8月29日、ユリウス暦同年同月19日

*15:柏書房、2009年

*16:ウツツ、現実には

*17:トウジョウ、闘争

*18:後世

*19:内々には、内心は

*20:評判、うわさ

*21:はかりごと、よいように管理すること。ここではダブルミーニングか

天正16年7月8日立花宗茂宛豊臣秀吉朱印状(刀狩令)1

 

 

(端裏書)

   (貼紙)*1

「 「太閤刀かりの御朱印」         羽柴柳川侍従*2とのへ  」

 

    条〻

 

、諸国百姓等、かたな*3・わきさし*4・ゆみ*5・やり*6・てつはう*7、其外武具のたくひ所持候事、かたく御停止*8候、其子細は、不入たうく*9相たくはへ、年貢所当をなんしう*10せしめ、一揆をくハたて、自然給人に対し非儀之動*11をなす族、もちろん御成敗あるへし、然ハ其所の田畠令不作、知行ついゑ*12に成候間、其国主・給人・代官等として、右武具悉取あつめ*13可致進上事

 

、右取をかるへきかたな・わきさし、ついゑ*14にさせらるへき儀にあらす、今度大仏御こんりう*15候釘・かすかい*16に被仰付へし、然ハ今生之儀ハ不及申、来世迄も百姓相たすかる*17儀に候事、

 

、百姓は農具さへもち、耕作を専に仕候へハ、子〻孫〻まて長久に候、百姓御あわれミ*18を以、如此被仰出候、寔国土安全、万民快楽*19のもとひ也、異国にてハ唐尭*20のそのかミ、天下をなてまもり給ひ、宝剱利刀を農器に用と也、<本朝にてハためしあるへからす>、此旨をまもり其趣を存知、百姓ハ農桑を情*21に入へき事、

 

右道具急度採集可致進上、不可有油断候也、

 

   天正十六年七月八日*22 (朱印)

(三、2556号。なお<>内は他文書から補った)

 

 

本文書はあまりにも有名であるが、案外落とし穴が潜んでいる。次回以降読んでいきたい。

*1:貼紙は山本博文『天下人の一級史料』29頁の写真を参照した。柏書房、2009年

*2:立花宗茂

*3:

*4:脇指

*5:

*6:

*7:テッポウ、火器の総称。元軍の用いた武器も火器である

*8:チョウジ

*9:道具。武器のこと

*10:難渋

*11:ハタラキ

*12:費・弊・潰。損失、損害、衰えること

*13:

*14:無駄

*15:建立

*16:

*17:現世では「苦労せずにすみ」、来世では「極楽浄土に行ける」

*18:憐れみ

*19:ケラク

*20:中国古代の理想的帝王。舜とともに理想的な統治が行われた時代として「堯舜」などのように古典によくあらわれる定型句

*21:

*22:グレゴリオ暦1588年8月29日、ユリウス暦同年同月19日

天正16年7月8日豊臣秀吉朱印状(海賊禁止令)(3)/止

 

 

一②、国〻浦〻船頭・猟師、いつれも舟つかひ候もの、其所之地頭代官として速相改、向後聊以海賊仕ましき由誓紙*1申付、連判をさせ、其国主取あつめ可上申事、

 

一③、自今以後、給人領主致由断、海賊之輩於在之者、被加御成敗、曲事之在所知行以下末代可被召上事、

 

右条〻堅可申付、若違背之族在之者、忽可被処罪科者也、

 

  天正十六年七月八日*2(朱印)


 
(書き下し文)
 

 

一②、国〻浦〻船頭・猟師、いずれも舟使い候者、その所の地頭代官として速やかに相改め、向後いささかもって海賊仕るまじき由誓紙申し付け、連判をさせ、その国主取り集め上げ申すべきこと、

 

一③、自今以後、給人領主由断いたし、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下末代召し上げらるべきこと、

 

右条〻堅く申し付くべし、もし違背の族これあらば、たちまち罪科に処せらるべきものなり、

 

(大意)
 
 
 
一②、全国の浦々の船頭・猟師、双方とも舟を用いる者は、そこを支配している地頭もしくは代官の責任において速やかに取り調べ、今後いささかたりとも海賊行為を行わない旨の誓紙に署名するよう命じ、連判させ、それらの誓紙を国主として徴集しこちらへ差し出すようにしなさい。
 
 
一③、今後、給人や領主が油断して、海賊行為を行う者が現れた場合は、成敗を加え、曲事の在所の者を厳しく処罰し、知行以下は永遠に取り上げるものとする。

 

右三ヶ条厳しく命じるものである。万一これに背く者は、すぐさま断罪するものである。

 

 

ここで海賊禁止令の充所を再確認しておく。

 

Fig.1 海賊禁止令充所


おおむね、京都・大坂から瀬戸内海を経て朝鮮半島・中国大陸方面へ向かう航路と南蛮方面への玄関口を確保しようとしたと言えそうである。

 

②の誓紙=請書は図2のように、大名領国では地頭へ、太閤蔵入地では代官に提出し、それを国単位で「国主」がまとめる手続きを踏んでいる。豊臣政権で「国」が支配の重要な単位であったことがうかがえる。

 

さらに③では、この法度に背いた場合、責任者である「給人・領主」*3は知行を召し上げ、浦々の者は「成敗」=斬罪に処すと二重の責任を明確にした。これは領主が当座の主であり、百姓がその土地に永遠に根づいた存在とする豊臣政権の検地方針を、海上にも敷衍したものと理解できる。

 

Fig.2 誓紙と地頭・代官・国主



こうして浦々も郷村同様に豊臣政権のもと再編成され、同日発せられた刀狩令と同様自力救済を否定された。以降海賊行為は「公儀」に背く違法行為とされた。

 

*1:上意下達された命に必ずしたがう旨を誓った文書。請書という。こうした上意下達下情上申により合意形成がなされていた

*2:グレゴリオ暦1588年8月29日、ユリウス暦同年同月19日

*3:前々回で③の「給人領主」と②の「地頭代官」は別としたが、同じものを指すものと解釈を改めた

天正16年7月8日豊臣秀吉朱印状(海賊禁止令)(2)

 
(書き下し文)
 
「        羽柴柳川侍従殿へ」
 

   定

諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ、このたび備後・伊与両国のあいだ、伊津喜島にて盗船仕るの族これある由聞し食され、曲事に思し食すこと、

 

 

(大意)
 
「       立花宗茂殿へ」
 

    定


一①、諸国海上において海賊行為を働く船について、厳禁としたところ、このたび備後・伊与両国の国境線上にある伊津喜島にて海賊行為を行った者があるという噂を耳にした。これは曲事である。

 

 

①の「海賊」について、山内譲氏は明治以降読み物として多くの「パイレーツ」物が流入した際に「海賊」の訳語があてられたことでイメージの混同が起きたと指摘する*1。海外ドラマで剽窃された著作物を「pirate」と呼ぶシーンを見ると、「海賊版」という言葉が日本語の中から生まれたというよりは、西洋語が輸入された際にそのまま直訳されて輸入されたという気がする。こうした翻訳事情から概念に混乱をきたすことは歴史学の宿命である。だからこそ史料上の用語か通称か、同時代の用語か後世の呼称か、日常用語か歴史学ないしは社会科学の概念かなどを厳密に区別することが求められるのである。

 

 

海賊行為とは、「通行料」を徴集する見返りに航行の「安全」を保障するか、さもなくば通航自体を「不当」とみなして財産などを没収する行為である。「通行料」とは平たくいえばみかじめ料のようなものである。ここからさしあたり海賊とは「海の領主」と呼ぶことができるだろう。

 

周知のようにマックス・ヴェーバーは政治的な団体、および国家について以下のように述べている。

 

 

過去においては、氏族(ジッペ)を始めとする多種多様な団体が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として認めていた。ところが今日では、次のように言わねばなるまい。国家とは、ある一定の領域の内部で-この「領域」という点が特徴なのだがー正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。

 
(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』9頁、脇圭平訳、岩波文庫版、赤字は引用者、下線は原文)

 

 

ヴェーバー流に言えば、海賊とは「物理的暴力」をノーマルな手段として行使していた政治団体であるといえよう。そして豊臣政権は、これら自力救済行為を私闘として禁じ、みずからの軍事行動のみを正当化し、独占してゆく権力であったのだ。それは郷村や浦々を含む様々な政治団体の再編成をともなう社会構造全体に関わるものであった。秀吉の「天下統一」は単なる国盗りゲームではないのである。

 

さて、①は「これまでに」海上での海賊行為を禁止したにもかかわらず、斎島で事件が起きたと耳にした秀吉が、曲事であると改めて言明した。事件についての詳細は不明であるが、対処療法的な側面も多分にあったことだろう。

 

*1:山内『海賊の日本史』3~4頁、講談社現代新書、2018年

天正16年7月8日豊臣秀吉朱印状(海賊禁止令)(1)

天正16年7月8日、秀吉は二通の朱印状を発した。いわゆる海賊禁止令と刀狩令である。これらは中世の原則である自力救済を禁じた「惣無事」政策の重要法令として位置づけられる。刀狩令が百姓の完全な武装放棄を促したといえないことは、今日では常識になっているが、豊臣政権が大きな一歩を踏み出したことは間違いない。有名な文書であるからこそ丁寧に読んでいきたい。

 

 

(端裏書)

「           羽柴柳川侍従とのへ*1 」

 

 

   定

諸国於海上賊船之儀、堅被成御停止之処、今度備後・伊与両国之間、伊津喜島*2にて盗船仕之族在之由被聞食、曲事二思食事、

 

、国〻浦〻船頭・猟師*3、いつれも*4舟つかひ候もの、其所*5之地頭代官*6として速相改、向後聊以海賊仕ましき由誓紙*7申付、連判をさせ、其国主*8取あつめ可上申事

 

、自今以後、給人領主*9致由断、海賊之輩於在之者、被加御成敗、曲事之在所知行以下末代可被召上事*10

 

右条〻堅可申付、若違背之族在之者、忽可被処罪科者也、

 

  天正十六年七月八日*11(朱印)

(三、2552号)
 
(書き下し文)
 
「        羽柴柳川侍従殿へ」
 

   定

諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ、このたび備後・伊与両国のあいだ、伊津喜島にて盗船仕るの族これある由聞し食され、曲事に思し食すこと、

 

、国〻浦〻船頭・猟師、いずれも舟使い候者、その所の地頭代官として速やかに相改め、向後いささかもって海賊仕るまじき由誓紙申し付け、連判をさせ、その国主取り集め上げ申すべきこと

 

、自今以後、給人領主由断いたし、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下末代召し上げらるべきこと、

 

右条〻堅く申し付くべし、もし違背の族これあらば、たちまち罪科に処せらるべきものなり、

 

(大意)
 
「       立花宗茂殿へ」
 
    定
 
諸国海上において海賊行為を働く船について、厳禁としたところ、このたび備後・伊与両国の国境線上にある伊津喜島にて海賊行為を行った者があるという噂を耳にした。これは曲事である。
 
 
、全国の浦々の船頭・猟師、双方とも舟を用いる者は、そこを支配している地頭もしくは代官の責任において速やかに取り調べ、今後いささかたりとも海賊行為を行わない旨の誓紙に署名するよう命じ、連判させ、それらの誓紙を国主として徴集しこちらへ差し出すようにしなさい。
 
 

、今後、給人や領主が油断して、海賊行為を行う者が現れた場合は、成敗を加え、曲事の在所の者を厳しく処罰し、知行以下は永遠に取り上げるものとする。

 

右三ヶ条厳しく命じるものである。万一これに背く者は、すぐさま断罪するものである。

 

本文中にある伊津喜島とは現在の斎島で、瀬戸内海中央に位置する。

 

Fig1. 備後・伊予国境線と伊津喜島

                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 

『秀吉文書集』に収載されている海賊禁止令の充所を一覧にしたのが下表であるが、本文書の端裏書に「羽柴柳川侍従とのへ」と記されている一例を除き、充所は記載されていない。おそらく一斉に大量発給するため省略したのであろう。また、下表のようにおおむね瀬戸内海沿岸に領国を持つ大名に限られており、さらに①の下線部にある斎島での事件に対応した法令と見ることもできるが、「諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ」とあるように、以前にも全国へ公布したと読める部分もあり、位置づけはむずかしい。

 

Table. 海賊禁止令一覧

 

本文の詳しい検討は次回としたい。

*1:立花宗茂

*2:中世末期までは伊予に、それ以降は安芸に属した斎島。図1参照

*3:漁師のこと

*4:どちらも

*5:所領、荘園、領地などその者が支配する土地

*6:地頭は領主、代官はいわゆる太閤蔵入地の代官。ただし、豊臣政権では「地頭」=大名が分国に隣接する直轄地の代官を兼ねるケースが多い

*7:起請文

*8:「地頭」や「代官」を統括する「国主」扱いの大名がいたらしい。

*9:①前条の「地頭」と同じ意味と解する立場、②前条の「地頭」の家臣、つまり秀吉の陪臣にあたる者と解する立場の二通りの解釈がありうるが、当ブログは後者の解釈を採用した。詳細は本文中で述べる

*10:在所は「郷村」や「浦々」、知行は土地の支配権。郷村や浦々構成員を成敗し、知行権を永久にとりあげるという意味。つまり海賊行為を行った当事者はもちろん、取り締まり能力の欠如した者の知行権も永久に取り上げるという責任の所在が二重にあることを明文化した。これは百姓は土地に根づく半永久的な存在であり、領主は当座を預かっているに過ぎないという豊臣政権の在地政策の原則と対をなしている

*11:グレゴリオ暦1588年8月29日、ユリウス暦同年同月19日