<史料1>
(書き下し文)
(端裏書)
(貼紙)
「 「太閤刀狩の御朱印」 羽柴柳川侍従*1とのへ 」
条〻
一①、諸国百姓ら、刀・脇指・弓・鑓・鉄炮、そのほか武具の類所持候こと、かたく御停止に候、その子細*2は、入らざる道具*3相蓄え、年貢所当を難渋せしめ、一揆を企て、自然給人*4に対し非儀の動をなす族、もちろん御成敗あるべし、しからばその所の田畠不作せしめ、知行潰え*5になり候あいだ、その国主・給人・代官等として、右武具ことごとく取り集め進上致すべきこと、
一②、右取り置かるべき*6刀・脇指、費え*7にさせらるべき儀にあらず、このたび大仏御建立候釘・鎹に仰せ付けられるべし、しからば今生の儀は申すに及ばず、来世までも百姓相助かる*8儀に候こと、
一③、百姓は農具さえ持ち、耕作をもっぱらに仕りそうらえば、子〻孫〻まで長久に候、百姓御憐れみ*9をもって、かくのごとく仰せ出だされ候、まことに国土安全、万民快楽の基なり、異国にては唐尭のその上*10、天下を撫で守りたまい、宝剱*11利刀*12を農器に用いるとなり、<本朝にては試しあるべからず>、この旨を守りその趣を存知、百姓は農桑を情*13に入るべきこと、
右の道具きっと採り集め進上致すべし、油断あるべからず候なり、
天正十六年七月八日*14(朱印)
(三、2556号。なお<>内は他文書から補った)(大意)
「 「太閤秀吉の刀狩令」 立花宗茂殿」
一、①、全国の百姓らが刀・脇指・弓・鑓・鉄炮、そのほかの武器のたぐいを持つこと、厳しく禁じるところである。なぜかといえば、不要な武器を集め、年貢・所当の納入を手こずらせ、一揆を企て、もし給人に対して謂れのない軍事行動を起こす者は、もちろん秀吉様が成敗するところである。したがってその所の田畠を不作にし、知行地潰れなるから、その国主・給人・代官等として、右の武具すべて没収し秀吉様へ進上するように。
一②、右の没収して集めた刀・脇指は、無駄にさせるつもりはない。このたびの方広寺大仏建立する釘・鎹にするように命じられるはずである。したがって今生は言うまでもなく、来世までも百姓は安穏に暮らしていけることになる。
一③、百姓は農具さえ持ち、耕作に専念すれば、子〻孫〻まで永遠に生活ができるのである。百姓への御慈悲の心をもって、このように仰せ出されたのである、実に国土安全、万民快楽の基礎である。異国においては唐尭のむかし、天下を鎮撫し、宝剱利刀のたぐいを農器に用いたそうである。<本朝においてその試しがあったことはない>、この旨を守りその意味するところをよく知り、百姓は農桑に精魂込めるべきである。
右の道具きっと採り集め進上すること。けっして油断してはならない。
刀狩令は島津家、立花家をはじめ大名のみならず寺社にも発給されているが、漢字仮名遣いや文言などに多少異同と脱漏が見られる。その点については山本博文『天下人の一級史料』*1539頁の一覧表を参照されたい。同上書「第一講刀狩令」は古文書学的検討を行っていて、本ブログもこれを参考にした。<>内は立花宗茂に充てたもののみに秀吉の右筆が書き漏らしたようで、これを他文書から補った。なぜ補ったかのといえば秀吉の自信がみなぎっているからに他ならず、書き損じたままでは秀吉流のレトリックが完成しないからである。請取人である宗茂は出来損ないの文書を読まされたことになる。
同日に発給された海賊禁止令と刀狩令の充所一覧を見てみよう。
Table. 海賊禁止令・刀狩令充所一覧
史料の残存状況によるので、この表からただちにある傾向を読み取ることはできないが、海賊禁止令と異なり畿内近国の寺社にも発給されている。同日発給だからといって必ずしもセットで考えなければならない、というわけでもなさそうだ。
①に「年貢所当を難渋せしめ、一揆を企て、自然給人に対し非儀の動をなす族、もちろん御成敗あるべし」と年貢所当の納入を拒み、武力行使に出る者は成敗すると明記されているように、刀狩令を「大仏殿建立にことを寄せて」という俗説が誤りであることがわかる。また下線部の「国主・給人・代官」のヒエラルヒーは次のように書き改めねばならない。
Fig. 刀狩令における国主・給人・代官
次の②で釘や鎹に用いるので、現世はもちろん来世まで「百姓相助かる儀に候こと」とする。百姓の生活が成り立たねば武家も生活できないことを説いているわけである。いたずらに苛斂誅求に走る領主は佐々成政のように成敗の対象となるのだ。
③では「百姓御憐れみをもって、かくのごとく仰せ出だされ候」と百姓への「慈悲深い思い」から発布したと述べている。これを額面通りに解するのはいささかナイーブに過ぎるが、「国土安全、万民快楽の基なり」と「万民快楽」を謳う政策は織田政権に見られない特徴である。しかも本邦初のことだと自画自賛している点も見逃せない。
豊臣政権がこれ以後も戦争を続けたことは周知のことに属するが、私戦の禁止と「惣無事」実現のために軍事力を行使するというアンビバレントな政権であることだけは確かであろう。
さてこの刀狩りへの反応としてよく引用される『多聞院日記』7月17日の条には次のようにある。
<史料2>
一、天下ノ百姓ノ刀ヲ悉取之、大仏ノ釘ニ可遣之、現*16ニハ④刀故及闘諍*17身命相果ヲ為助之、後生*18ハ釘ニ遣之万民利益理当ノ方便ト⑤被仰付了云々、⑥内證*19ハ一揆為停止也ト沙汰*20在之、種〻ノ計略*21也、
(『増補続史料大成 多聞院日記 四』137頁、臨川書店)
(書き下し文)
一、天下の百姓の刀をことごとくこれを取り、大仏の釘にこれを遣わすべし、うつつには④刀ゆえ闘諍に及び、身命相果つるをこれを助け、後生は釘にこれを遣わし万民の利益の理わりを当てるの方便と⑤仰せ付けられおわんぬと云々、⑥内證は一揆停止のためなりと沙汰これあり、種〻の計略なり、
(大意)
一、全国の百姓の刀をすべて没収し、これらをすべて大仏の釘に使う。現状はつねに刀を帯びているからすぐに腕尽くで解決しようとし、命を落とす百姓が多いのを助け、後の世は大仏の釘となり万民が利益を得るとの方便で仰せ付けられたという噂だ。内心は一揆を起こさないようにするためだという評判もあり、関白はいろいろ計略をめぐらしているに違いない。
下線部⑥は刀狩令の「本音」を多聞院英俊が見抜いたものとされるが、下線部①に「一揆を企て」とあるように明記されている。また⑤によれば彼は「仰せ付けられたのだという噂だ」としているので、彼自身が原文を読んだ感想ではなく見聞きした世評を記したととらえるのが素直な解釈であろう。
また、下線部④は当時の百姓がつねに刀を帯び、すぐ実力行使に出て命を落とす者が多いという現状を記したものと解すべきであろう。百姓の、すぐに血が上る性格は他史料にも見られ、昭和期まで続く村の慣行と言える。