日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

明治9年9月3府35県(ほかに開拓使と琉球藩)と慶応4年2月11日300諸侯の対照表

明治以降の府県制はよくいえば試行錯誤の連続、有り体にいえばその場しのぎで(姑息で)弥縫的な側面が強く、また戸口や石高も旧大名による申告が多かったようだ。データベースに入力していると弥縫的と強く感じる。とりわけ入力する際には何を選び取り、何を捨て去るかという基本的な問題に直面する。くれぐれも「プロクルステスの寝台」に陥らないよう心懸けたい。

 

ところで、洋の東西を問わず「歴史」という言葉には「記録されたもの」という含意が込められている。記録の残されていない時代を「先史時代」というのはこのためで、決して「歴史のない時代」という意味ではない。「百姓に歴史はありますか、豚に歴史がありますか」との発言には暗黙の裡に「記録の残されていない=歴史が存在しない」といった先入観が紛れ込んでいる。

 

この狭義の意味における「歴史」は文字なくして成立しない。文字は当然言語の成立を前提とする。言語のない文字は人工言語を除いて存在しない。このことはいくら強調してもしすぎることはなかろう。

 

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本表の興味深い点を一点指摘しておく。石高反別は38のうち18が、戸口人口は11が空欄であるにもかかわらず全国総計の数値が算出されている点である。様々な憶測が成り立つだろうが、明治新政府の中央集権的把握能力はさほどでもなかったというのはおおいにありそうだ。にもかかわらず、様々な課題を抱える中央政府にとり全国総計は必要欠くべからざる財源の根拠であった。そこに「羊頭狗肉」の臭いを嗅ぎ取るのは下衆の勘ぐりかもしれないが。

 

慶応4年2月11日明治新政府による300諸侯一覧

慶応4年2月11日(太陰太陽暦)明治新政府は約300名を「諸侯」に任じた。このうち40万石以上の者を「大藩」*1としたが、徳川宗家16代徳川家達も駿河静岡藩主としてその一角を占める。こうした少数の者による支配体制をオリガーキー(oligarchy)、それら少数の支配者をオリガーク(oligarch)と呼ぶ。今話題の「オリガルヒ」(Олигархи)はこの複数形である。

 

このころから大名領を「藩」と呼ぶことになったのであって、その前は「領」と呼んでいた。1万石に満たない将軍家直臣旗本を「地頭」と呼び、その土地を「地頭知行所」、この二つをあわせて「私領」と呼び、「御領」、「御料」、公領である幕府直轄領と区別した。

 

慶応4年の翌年明治2年に大名を「藩知事」に任じ所管行政区を「藩」、また旧地頭領と幕府直轄領を合わせて「府県」とし、「府県知事」(権知事)を置いた。ここに「府県藩」体制が発足したわけである。

 

下表は縦軸に国を、横軸に諸侯を配し、国ごとに大名の員数を一覧できるように努めたが、もともと幕府領や旗本領の多い非領国地域はおおむね新政府直轄領に編入されたため結果的に彼らの存在は本表から抹消されている点注意されたい。

 

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言うまでもなく、北海道は「」なのであって従来の「七道」が「八道」に拡張された結果生まれたのであって、比較するなら府県ではなく東海や東山、北陸などがふさわしい。なお広域行政区「道」も律令制に由来する。

 

その後の府県分割合併については折を見て掲載したい。

 

*1:「藩」とは本来バリケードとなる垣根=「藩屏」を意味し、転じて主君を守護する者、家臣を指すようになった。公的文書に「○○藩」と記されるようになったのも、特定領主が支配する領域をも意味するようになったのも明治以降のことで、同時代用語ではない

天正16年閏5月15日加藤清正宛豊臣秀吉領地充行状

 

 

於肥後国領知方、都合拾九万四千九百拾六石、目録<別紙在之>事、被宛行之訖、但此内弐万石国侍*1ニ可被下之条、御朱印次第*2相渡、則其方可致合宿*3、其外見宛*4全可令領知候也、

 

   天正十六

    後五月十五日*5(朱印)

        加藤主計頭とのへ*6

 

(三、2514号。<>内は割註、下線部は引用者による)
 
(書き下し文)
 
肥後国において領知方、都合19万4916石のこと<目録別紙これあり>、これを充行われおわんぬ、ただしこのうち2万石国侍に下さるべくの条、御朱印次第相渡し、すなわちその方合宿致すべし、そのほか見宛てまったく領知せしむべく候なり、
 
(読みやすさを優先しアラビア数字に改めた)
 
(大意)
 
肥後国の領知について、都合19万4916石のこと(目録は別紙参照)、これを充てがう。ただしこのうち2万石は国侍に与えるので、朱印状が発せられ次第知行地を彼らに渡し、そなたの寄子としなさい。そのほかは可不足なく領知するように。
 

 

19万4916石を清正に与えるという領知充行状である。ただしそのうちから2万石を国侍たちに後日朱印状が発給され次第彼らに分与するようにとする。つまり差し引き17万4916石が清正の知行地で、国人一揆の戦後処理が落ち着くまで暫定的に2万石分余計に預かるわけである。領知の具体的な内訳は次号の文書を読む際に示す。

 

*1:国衆

*2:国侍宛の朱印状が発給され次第

*3:寄子とし

*4:「見当て」。見当たり次第、ありとあらゆる

*5:J暦1588年6月28日、G暦1588年7月8日

*6:清正

天正16年閏5月15日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

 

(包紙ウハ書)

「    加藤主計頭とのへ*1   」

 

其方事、万精を入、御用*2ニも可罷立被(闕字)思食付、於肥後国領知方一廉*3被作拝領*4、隈本*5在城儀被(闕字)仰付候条、相守御法度*6旨、諸事可申付*7候、於令油断者可為曲事候、就其陸奥守*8事、以一書*9被(闕字)仰出候ことく、去十四日腹を切させられ候、雖然家中者*10之儀者不苦候間其方小西*11相談、其〻ニ見計、知行念を入遣*12之、為両人可拘置候、猶浅野弾正少弼*13・戸田民部少輔*14可申候也、

    後五月十五日*15(朱印)

        加藤主計頭とのへ

(三、2513号。下線、番号は引用者による)

 

(書き下し文)

 

その方こと、よろず精を入れ、御用にも罷り立つべきと思し食めさるるについて、肥後国において領知方一廉拝領なされ、隈本在城儀仰せ付つけられ候条、御法度の旨を相守り、諸事申し付くべく候、油断せしむるにおいては曲事たるべく候、それについて陸奥守こと、一書をもって仰せ出だされ候ごとく、去る十四日腹を切らさせられ候、しかりといえども家中の者の儀は苦しからず候あいだその方小西相談じ、それぞれに見計らい、知行念を入れこれを遣わし、両人として拘え置くべく候、なお浅野弾正少弼・戸田民部少輔申べく候なり、

 

(大意)

 

そなたは万事に精を入れ、公儀御用にも必ず役に立つだろうから、それに報い肥後において領知について格別の配慮をもって、熊本在城を命じたので、天正14年の法度の趣旨をよく守り、万事にわたって統治しなさい。落ち度などがあれば曲事とみなす。それに関連して成政は、閏5月14日の朱印状で命じたように、去る14日に自害させた。そうではあっても家中のあいだに動揺は広がっていないので、そなたも行長とよく相談して、互いに適切に処理し、知行地の支配を念入りに行い、両人として統治すること。なお詳細は浅野長吉・戸田勝隆が口頭で伝える」ものである。

 

 

天正16年閏5月15日清正に充てて4通*16の朱印状が発給されている。本文書、領知充行状、領知目録に加えて、玉名郡高瀬津200石を蔵入地とし、清正をその代官とする旨の朱印状である。これらは4通で一組なので次回以降も採り上げたい。ただし、これら4通が冒頭の包紙に同封されていたかについてはあきらかでない。

 

本文書の趣旨は清正に、成政亡き後の肥後国を行長とともに統治せよというものである。領地は次回以降触れるようにそれぞれに与えられるが、それぞれが「閉じた領域」を成すのではなく、肥後一国を「両人として拘え置く」ことを命じている。今日的な感覚からは大名領国を排他的な単色に塗りつぶしたくなるが、必ずしもそう単純ではなさそうである。それは下線部②に「その方・小西相談じ」とあることにもよく示されている。

 

下線部①には「しかりといえども家中の者の儀は苦しからず」とある。「しかりといえども」は逆接を意味するので「成政を自害させたけれども」ということになり、つづいて「家中の者の儀は苦しからず」とあるので、「成政を自害させたが家中のあいだに動揺はなく」という意味になる。わざわざこう記すのは成政の処遇が与える豊臣家臣団への悪影響を、秀吉自身が十分予想していたからであろう。閏5月14日付の成政弾劾状がかなり長文であったことを考えればそれも頷ける。そういう意味で肥後国人一揆の戦後処理は豊臣政権にとって重要な試金石のひとつだったのである。

 

*1:清正

*2:秀吉への務め

*3:大いに

*4:「配慮」の意か

*5:熊本

*6:天正14年1月19日朱印状、1841~1845号

*7:統治すること

*8:佐々成政

*9:閏5月14日付佐々成政弾劾状

*10:ここでは豊臣直臣=大名らのこと

*11:行長

*12:「遣わす」は現在では「派遣する」意味で使われることが多いが、本来は「上位者から命じられたことを行う」という意味だった。なお「遣」で「~しむ」、「~せしむ」という読みもある

*13:長吉

*14:勝隆

*15:天正16年、J暦1588年6月28日、G暦1588年7月8日

*16:うち1通は写のみ

天正16年閏5月15日大矢野種基宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

肥後国天草郡内千七百五十*1之事、此度以御恩*2地之上、為被宛行之訖、全令領知、小西摂津守*3于致合宿*4、可抽忠節候也、

   天正十六 後五月十五日 御朱印

      大矢野民部大輔とのへ*5

 

(三、2512号)

 

(書き下し文)

 

肥後国天草郡のうち千七百五十石のこと、このたび御検地の上をもって、これを宛てがわせられおわんぬ、まったく領知せしめ、小西摂津守に合宿いたし、忠節抽くんずべく候なり、

 

(大意)

 

肥後国天草郡のうち1750石、このたびの検地により充行うものである。これを領知し、小西行長の与力として忠節をつくすように。

 

Fig. 肥後国天草郡大矢野島周辺図

              『日本歷史地名大系 熊本県』より作成

 

佐々成政自害の翌日、天草五人衆の一人、大矢野種基に秀吉から発せられた朱印状写である。写であるため、やや不自然な表現が散見される。

 

これにより種基は秀吉の直臣となり、小西行長を寄親とする軍団に組み込まれた。つまり自立した国衆から豊臣「小名」と変貌を遂げた瞬間でもある。こうした事例でもっとも有名なのは信濃の真田氏であろう。

*1:石脱カ

*2:検カ

*3:行長

*4:「宿」には家のほかに家々が集まってできる村の意がある。ここではそうした一箇所に集住しての意

*5:種基、天草五人衆の一人中村城主。洗礼名ジャコベ