日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

和暦のみで年齢を計算する方法

  

外見

 

f:id:x4090x:20210316151918p:plain

 

なお年齢欄はすべて

  

=ABS(ROW()-COLUMN())+1

 

です。

 

 VBAコードを除いた雛形はこちらからどうぞ。

 

和暦年齢.xlsx - Google ドライブ

 

コード

 

 

Private Sub Commandbutton1_Click()


Dim Row As Long, column As Long
Dim 出生年 As String, 当該年 As String, 数え年 As Variant

  出生年 = Range("I2").Value
  当該年 = Range("I3").Value


On Error Resume Next


  Row = WorksheetFunction.XMatch(出生年, Range("E7:E186"), 1)
  column = WorksheetFunction.XMatch(当該年, Range("G5:GD5"), 1)
  数え年 = WorksheetFunction.Index(Range("G7:GD186"), Row, column)


On Error GoTo 0

'MsgBox "年齢は" & 数え年 & "です"
Range("L2").Value = 数え年

End Sub

 

 

メッセージボックスがわずらわしい場合、省いても問題なく動作します。

 

 

使用例

「当該年」は没年にしました。

 

1.織田信長  17,531日間

f:id:x4090x:20210317120058p:plain

 

2.豊臣秀吉  22,456日間

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3.徳川家康  26,777日間

f:id:x4090x:20210317120135p:plain

 

利点

 

数え年は生まれた年に「1歳」となり、正月を迎えると「2歳」になります。「0歳」という概念は存在しません。大晦日生まれの新生児は翌日には「2歳」となります。逆に言えば出生日に関係なく年齢計算できます。年間日数が異なり、閏月のないユリウス暦やグレゴリオ暦に置き換えると最大3ヶ月ズレが生じますがこれを防げます。改元年を未来年号に書き換えるような手荒なまねもしません。なにより史料に書かれた年齢が数え年である点、20世紀後半まで長く使われた数え年を無理に満年齢に置き換えずにすむ点、この二点が最大のアドバンテージと考えます。

 

暦については

 

 

これ(暦の問題、引用者註)は、一見些末でもあり、長期的な把握のなかでは不要な場合もありうるが、看過できない要素である。

伊川健二「戦国時代の多様な対外関係」69頁、『歴史評論』852号、2021年)
 

 

 と指摘されています。

 

2021年3月19日追記

1950年、大阪市長近藤博夫は『生活科学』3巻1号の巻頭言「若返りの新年」で、数え年に馴れた世代の満年齢への移行に関して興味深い告白をしている。

 

https://doi.org/10.11468/seikatsueisei1948.3.1

 

 

天正14年8月3日立花宗茂・高橋紹運宛豊臣秀吉判物

 

 

(包紙ウハ書)

 「   立花左近将監とのへ*1   

     高橋主膳入道とのへ*2      」

 

対黒田勘解由*3・宮木入道*4七月九日書状到来候、抑九州事帯条目*5、豊*6・芸*7・薩*8加下知*9候之処、義統・輝元令承伏、以和合之儀馳走尤神妙候、然島津事至于筑紫領内*10相動、于今在陣之由無是非候、此旨最前義統註進候条、則毛利・小早川*11・吉川*12等越関戸*13義統令相談、急度可及行*14由申含、黒田勘解由・宮木差下候シ、定不可有由断候、此上敵不逃散者、輝元註進次第追〻差遣人数、其上秀長*15・秀次*16を始可相動候之条、彼凶徒等*17可加伐罰*18候、然者両人*19事依忠節望等之儀可申付候、味方中申談、聊無越度様調儀*20専一候、宗滴*21・義統へも具被仰下候間、可得其意候也、

 

  八月三日*22 (花押)

 

     立花左近将監とのへ

     高橋主膳入道とのへ

 

(三、1923号)

 

(書き下し文)

 

黒田勘解由・宮木入道に対する七月九日書状到来候、そもそも九州のこと条目を帯し、豊・芸・薩下知を加え候のところ、義統・輝元承伏せしめ、和合の儀をもって馳走しもっとも神妙に候、しかりて島津こと筑紫領内にいたり相動き、今に在陣のよし是非なく候、この旨最前義統註進候条、すなわち毛利・小早川・吉川など関戸を越え義統相談せしめ、きっとてだてに及ぶべきよし申し含め、黒田勘解由・宮木差し下しそうらいし、さだめて由断あるべからず候、この上敵逃散せずんば、輝元註進次第おいおい人数を差し遣わし、その上秀長・秀次をはじめ相動くべく候の条、かの凶徒など伐罰を加うべく候、しからば両人こと忠節により望などの儀申し付くべく候、味方中申し談じ、いささかも越度なきよう調儀専一に候、宗滴・義統へもつぶさに仰せ下され候あいだ、その意を得べく候なり、

 

(大意)

 

 黒田孝高・宮木堅甫への7月9日付の文書到着しました。九州の国分について条目を使者に持たせ、大友・毛利・島津へ下知を下したところ、大友義統と毛利輝元は下知にしたがい、和平のため奔走したこと実に神妙なことです。しかるに島津義久はいまだ筑紫領内に侵入し在陣しているとは言語道断の振る舞いです。この旨義統が伝えてきので、ただちに輝元・隆景・元春らが関戸を越えて義統と合流しかならず制圧するよう申し含め、孝高・堅甫を派遣しました。けっして油断のないように。さらに島津軍が撤退しないのなら、輝元から報告あり次第軍勢を派遣し、秀長や秀次をはじめとする豊臣本軍が行動に移りますので、かの島津軍たちに誅罰を加えるはずです。そういうわけで両人には働きに応じて望みに応じるよう申しつけます。味方とよく話し合いいささかも落ち度がないように調整することが大切です。宗麟・義統父子へも詳しく申しつけますので、お含み置きください。

 

 

 

 

Fig.1 筑前国立花城・宝満城・岩屋城周辺図

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

Fig.2 高橋紹運・立花宗茂関係図

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 大友氏の家臣筋にあたる立花宗茂・高橋紹運父子への文書である。島津氏降伏後、立花氏は秀吉から13万石を与えられ豊臣大名となる。

 

秀吉の九州国分が、毛利・大友・島津の三氏の国郡境目相論、すなわち「私戦」を停止するよう命じたことであることが読み取れる。毛利氏はすでに秀吉に臣従していたはずだが、前回の松浦鎮信宛判物にもあるように領国の西端ではいまだ「私戦」に勤しんでいたらしい。

 

*1:宗茂

*2:紹運、宗茂の実父

*3:孝高

*4:堅甫

*5:一つ書きからなる文書。1874号もしくは1902~1904号のことカ

*6:豊前・豊後=大友義統

*7:安芸=毛利輝元

*8:薩摩=島津義久

*9:豊臣側から見た「私戦」停止命令

*10:①九州全体、②筑前・筑後の二ヶ国、③その二ヶ国に火(肥)の国、豊の国を併せた九州北部などの意味があるがここでは大友氏領国内を意味する③

*11:隆景

*12:元春

*13:文書集には「長門国」とあるが、安芸との国境近くの周防国玖珂郡関戸カ

*14:テダテ、軍事行動

*15:豊臣

*16:同上

*17:島津勢

*18:バツバツ、誅罰と同義

*19:宗茂と紹運

*20:調整すること

*21:大友宗麟

*22:天正14年

天正14年5月28日松浦鎮信宛豊臣秀吉判物

 

 

(包紙ウハ書)

 

「    松浦肥前守とのへ*1  

 

 

   将亦*2孔崔*3進上之儀、珍敷*4思召自愛*5候、并南蛮笠*6・象牙・猩々*7*8胴服*9、是又被悦思食候、以上、

 

三月十三日書状、今月廿六日到来候、抑九州之儀、対毛利*10・大友*11・島津*12、某々*13国分*14儀雖被仰付候、其方儀者先年書状等差上、懇被申越候之条、人質以下如御存分*15於進上者、進退*16之儀無別条様、各へ可被仰出候間、心安可存候、猶尾藤左衛門尉*17可申候也、

 

  五月廿八日*18 (花押)

 

      松浦肥前守とのへ

 

(三、1897号)

 

(書き下し文)

 

三月十三日書状、今月廿六日到来候、そもそも九州の儀、毛利・大友・島津に対し、某々国分の儀仰せ付けられ候といえども、その方儀は先年書状など差し上げ、ねんごろに申し越され候の条、人質以下御存分のごとく進上するにおいては、進退の儀別条なきよう、おのおのへ仰せ出さるべく候あいだ、心安く存ずべく候、なお尾藤左衛門尉申すべく候なり、

 

はたまた孔崔進上の儀、珍らしく思し召し自愛候、ならびに南蛮笠・象牙・猩々皮胴服、これまた悦ばれ思し食し候、以上、

 

(大意)

 

三月十三日付の書状、今月二十六日に到着しました。そもそも九州の国分は毛利・大友・島津に対するもので、誰それの領国であると秀吉から仰せつかったとしても、そなたは以前より書状等を差し出し、誠意を持って誼を通じてきていますので、人質等こちらの企図するとおり進上するなら所領の件はこれまでと変わりなく命じますのでご安心ください。詳しくは尾藤知宣が申し上げます。

 

さて、お贈り下さった孔雀大変素晴らしく、大切にしています。南蛮帽や象牙、羅紗の胴服も大変気に入っております。以上。

 

 Fig. 肥前国松浦郡周辺図

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                     「肥前国」(『国史大辞典』)より作成

本文書は下線部の通り、このたびの国分=秀吉による国郡境目相論の裁定、国境の再画定は毛利・大友・島津を対象としたもので、松浦鎮信は以前から恭順する意思を明確にしているので心配には及ばないと書き送ったものである。

 

松浦鎮信はこの2年前、イスパニア国フィリピン諸島長官宛に書翰を送っている*19。文面には「貴下(フィリピン諸島長官のこと、引用者註、以下同じ)またはイスパニア王の命に応じ、いかなることにてもなさんと欲すること、ならびに当領内に来たるべきイスパニア王の臣民に対し陛下(イスパニア王)に対する行為を示さんとすることを告ぐ」とフィリピン諸島長官ならびにイスパニア王の要請にはどのようなことにでも応じると記されている。その甲斐あってか本文書にあるように南蛮渡来の品やアフリカ産と思われる象牙などを得ていたらしい。ちなみに西アフリカの「コートジボワール」(Côte d'Ivoire)は1980年代まで日本ではそのものずばり「象牙海岸共和国」と呼ばれていた。英語では「Republic of Côte d'Ivoire」と英仏混淆表記である。現在象牙やクジラなどはワシントン条約により原則として輸出入が禁じられている。

 

*1:鎮信。肥前国松浦郡を本拠とする戦国大名。下図参照

*2:ハタマタ

*3:

*4:メズラシク。すばらしい、結構な

*5:大切に扱うこと、またそれに値するもの

*6:つばの広いフェルト製の帽子。南蛮帽・南蛮頭巾ともいう

*7:ショウジョウ。想像上の動物で酒好き、あるいは人間に似ている海獣とされる

*8:猩々緋色、RGB値で(206,49,61)、(231,0,29)、(226,4,27)など。ただし同じ「猩々緋色」でもRGB値により色合いは異なる

*9:羅紗(raxa=「ラーシャ」ポルトガル語で毛織物の一種)でできた服

*10:輝元

*11:義統

*12:義久

*13:ナニガシカガシ・ナニガシソレガシ・ナニガシクレガシ。不特定の人物を表す「誰それ」

*14:クニワケ。戦国大名間で取り交わされる領土協定や豊臣政権による領土確定を当時「国分」と呼んだ。豊臣政権は大名間の交戦を「私戦」として否定し国郡境目相論の裁定を独占的に行った。cf.「惣無事」

*15:秀吉の考え

*16:所領

*17:知宣。石田三成の義父

*18:天正14年

*19:『大日本史料』第11編7冊、595~597頁。原文書を所蔵している「西班牙国(スペイン・イスパニア。「イスパニア」の方が原音のEspaña「エスパーニャ」に近い)セビーヤ市インド文書館」の「セビーヤ市」とはSevillaのこと。日本では通常「セビリア」と呼ぶがサッカーチームにだけはなぜか「セビージャ」を使う。スペイン語では「セビーヤ」がもっとも近いらしい。また「インド文書館」とあるのは「インディアス古文書館」のことで南北アメリカ大陸およびフィリピンの植民地経営に関する文書を所蔵しており、歴史的建造物でもあることから1987年ユネスコ世界文化遺産に登録されている。「インディアス」とはカリブ海に浮かぶ西インド諸島、南北アメリカおよびフィリピン諸島の総称。そのため先住民を「インディアスの人々」=「インディオ」と呼んだ。ちなみに「ロス・インディオス」(Los Indios)は英語風にいえば「The Indians」で「先住民たち」・「インド人たち」を意味する。「インディアス」はもともとインドや南アジア、東アジアの広い範囲を指す概念で日本も含まれており、「東インド会社」の「東インド」に近い地理的概念である。日本の「天竺」、「南蛮」同様時代により指す範囲が大きく異なる

天正14年5月13日太田資正宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

三月十四日書状加披見候、家康*1事種々依懇望、誓紙*2・人質等堅相卜*3令赦免候、然者東国儀近日差遣使者、境目等之儀可相立*4候、若相滞族有之者、急度可申付候之間、可被得其意候、何*5不図為富士一見可相越之条、猶其刻可申候也、

   五月十三日*6  (朱印影)

       三楽斉*7*8

 

(三、1889号)

 

 (書き下し文)

 

三月十四日書状披見を加え候、家康こと種々懇望により、誓紙・人質など堅く相卜し赦免せしめ候、しからば東国儀近日使者を差し遣わし、境目などの儀相立つべく候、もし相滞る族これあらば、きっと申し付くべく候のあいだ、その意をえらるべく候、いずれもふと富士一見のため相越すべくの条、なおその刻申すべく候なり、

 

(大意)

 

 三月十四日付の書状拝読しました。家康が誓紙と人質を差し出すと懇願してきたので熟慮の末赦免することとしました。そういうことですので関東の境目について近日中に使者を派遣し定めることとします。もし抵抗する者がいれば制圧するのであらかじめお含み置きください。いずれにしても冨士山を一目見たくそちらへ出向きますので詳しくはそのときに申し上げます。

 

 

Fig. 常陸国新治郡片野城と武蔵国埼玉郡岩付城

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                   『日本歴史地名大系 茨城県』より作成


 5月25日付白川義親宛朱印状*9、および塩谷弥六宛朱印状写*10によれば使者として山上道牛(道及)、境目を定める検使として増田長盛・石田三成が派遣されている。

 

 

*1:徳川

*2:起請文

*3:ボクシ、うらなう・判断して定める

*4:定める

*5:イズレモ、いずれにしても

*6:天正14年

*7:

*8:太田資正、もと武蔵国岩付城主、このころは常陸片野城主。反北条。下図参照

*9:1893号

*10:1894号

天正14年4月19日佐竹義重宛豊臣秀吉判物

 

 

去月七日返礼到来遂披見候、仍会津*1伊達*2累年鉾楯由候、天下*3静謐*4処不謂*5題目*6候、早〻無事*7段馳走肝心候境目等事任当知行*8可然*9双方自然存分於在之者、依返事可差越使者候、不斗*10富士可一見候条、委曲期其節候也、

   四月十九日*11 (花押)

      佐竹左京大夫殿*12

(三、1875号)
 
 
(書き下し文)
 
去月七日返礼到来し披見を遂げ候、よって会津と伊達累年鉾楯のよしに候、天下静謐のところ謂われざる題目に候、早〻無事の段馳走肝心に候境目などのこと当知行に任せ然るべく候双方自然存分これあるにおいては、返事により使者を差し越すべく候、ふと富士一見すべく候条、委曲その節を期し候なり、
 
(大意)
 
三月七日付の返書拝見しました。芦名と伊達が長年にわたって合戦をしているとのこと。天下太平の今日実に正当な理由のないことです。早期に講和するよう奔走することが重要です国郡の境目については「当知行」の原則にしたがい適切に定めなさい双方に申し分があるのなら、返事の内容如何で使者を派遣します。富士山でも見たくなりましたので、詳しくはその時にでも。
 
 

 

本文書は常陸国久慈郡太田城主佐竹義重にあてた判物である。朱印と異なり花押を据えた判物は厚礼である(下図2参照)。内容は会津の芦名氏と米沢の伊達氏が長年にわたって「謂われざる題目」によって「天下静謐」を脅かしているので早々にやめるよう、芦名氏の縁者である佐竹氏に要請したものである。

 

 Fig.1 陸奥国会津郡・伊達郡と出羽国米沢城周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系 福島県』より作成

Fig.2 判物と朱印状の使い分け

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 註:上図の「豊臣氏譜代」という不用意な表現について。「譜代」はもともと「系図」や「系譜」を意味していたが、その後「代々同じ主家に仕える者」という意味になった。今でも奉公人や主家に所属する農民を「譜代」と呼ぶ地方もある。さらに現在のように「よそ者」を「外様」と呼ぶのに対して「譜代」というが、ここではその意味で使用している。そもそも秀吉は一代で上りつめたので「代々豊臣家に仕えた」ということはありえない。

 

 ①では秀吉の許可ない戦争は「私戦」として禁じ、②で国郡の境目は信長と同様「当知行」の通り現状維持とするとしている。③ではそれでも双方に言い分があるのなら使者を派遣するとしており、この使者を派遣するというのは秀吉が境界の裁定者であるということを意味する。当知行を認めつつも、機会があれば土地所有権を一元化しようとする秀吉の思惑が見え隠れする文書である。

 

*1:黒川城主芦名盛重、常陸太田城主佐竹義重の次男

*2:出羽米沢城主伊達政宗

*3:もともとは「天命」を帯びた天の子である「天子」が「天」の「下」を統治するという考え方を示す語だったが、のち政治用語としてさまざまな意味で使われるようになった。ここでは漠然とした「世の中」、「世間」程度の意

*4:静かで落ち着いていること、平和なこと。「日葡辞書」には「天下、今静謐にござる」との用例が見える。もちろん九州攻めを控えていた当時、実際に「天下静謐」の状態にあったわけではなく秀吉一流のレトリックである

*5:無用の

*6:取り上げるべき事柄。「謂われざる題目」で「正当の理由もなく」の意

*7:平和。全国規模の「無事」は「惣無事」

*8:現実に支配=知行している土地。御成敗式目第8条に「御下文(将軍家政所下文)を帯すといえども知行せしめずして年序を経る所領のこと」として「当知行ののち廿ヶ年を過ぎるは右大将家(源頼朝)の例に任せて理非を論ぜず改替(没収する)にあたわず」とあり、押領した土地でも20年経てばもとの持ち主の権利が消滅する時効となる

*9:適切に、適当に

*10:フト。ちょっとした思いつきをあらわす言葉

*11:天正14年

*12:義重