日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年9月18日吉川元長宛豊臣秀吉朱印状

 

 

態申遣候、薄*1と云公家諸国牛ニ役銭を相懸候執之由候、秀吉聊も不知事候、定可為謀判*2候、言語道断曲事候、其国在々所々にて馳走仁*3可有之条、糺明候て、右役銭取候者有之者、公家にても門跡*4にても何者成共、悉召搦候て可被相越候、無油断尋捜候て、可被搦捕候事専一候、為其染筆候也、

  九月十八日*5 (朱印)

   吉川治部少輔*6とのへ

 

『秀吉文書集二』1633号、263頁

 

(書き下し文)

 

わざわざ申し遣わし候、薄と云う公家諸国牛に役銭を相懸け候てこれを執るよしに候、秀吉いささかも知らざることに候、さだめて謀判たるべく候、言語道断の曲事に候、その国在々所々にて馳走の仁これあるべくの条、糺明候て、右役銭取り候者これあらば、公家にても門跡にても何者なるとも、ことごとく召し搦め候て相越さるべく候、油断なく尋ね捜し候て、搦め捕らるべく候こと専一に候、そのため染筆候なり、

 

(大意)

 

書面にて申し入れます。薄という公家が諸国の牛に役銭を課し、これを徴収しているとのこと。秀吉は一切聞いておりません。きっと印判を偽造したものでしょう。言語道断の曲事です。そなたの領国の村々において徴収している者もいるでしょうから、よくよく取り調べた上で、牛公事銭を徴収している者は、公家であろうが門跡であろうが全員捕らえてこちらへ護送してください。油断なく監視し、かならず召し取るようにしてください。そのために本書面をしたためました。

 

 

ほぼ同文の朱印状が毛利輝元・小早川隆景あてにも発せられている*7

 

薄諸光は権大納言・山科言継の次男で、参議・薄以緒の猶子であり、橘氏唯一の堂上家である薄家を継いだ。この薄家について「言継卿記」永禄12年(1569)3月3日条は織田信長に差し出した知行書立の写を伝えている*8。内容は下表の通りである。

 

Table. 薄家知行書立

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                                        『大日本史料』第11編21冊、47~48頁

 これによると薄家は「諸国」に「牛公事」という役銭を懸ける権限を保有しており、永禄年間には山城と丹州(丹波・丹後)以外は「不知行」、つまり公事銭を徴収できない状況にあった。閏8月12日前田玄以より公家や門跡などにあてて「御公家・御門跡領そのほか・・・御当知行の分、いささかもって相違あるべからざる旨、昨日仰せ出され候条、おのおのお機遣いあるべからず候」*9との文書が発給されており、もともと薄家の「家業」として牛公事徴収が認められているのだから、諸光により吉川・小早川・毛利領国においてこれを徴収することは理にかなっている。しかし秀吉は諸光が文書を偽造したとして捕縛するよう彼らに依頼している。表向き「謀判」を理由としているが、本音はどうだっただろうか。

 

諸光がその後どうなったのか、次の史料に記されている。

 

 

 

 「兼見卿記」10月2日条

薄権佐*10このたび牛公事の義に、諸国へ使者を差し下し、在郷相紛れ*11申し付け、曲事により、見向院に居籠*12まれ、民法*13よりこれを番す*14、無念口惜しき次第なり

『大日本史料』第11編21冊17頁

「多聞院日記」11月7日条

公家衆は知行三分一のほかはみな落ち*15おわんぬと、・・・牛の公事につき、スヽキ殿という公家も生害すと云々*16、同じく女中も生害しおわんぬと

Id.at 18 

 

 

吉田兼見は謀判、つまり文書の偽造ではなく諸国郷村を混乱させた罪と理解したようであり、また多聞院英俊は公家衆の知行が減らされたとの話と結びつけて、諸光が自害させられたと記している。

 

ひと月ほど前の閏8月12日前田玄以が発した上述文書では、公家や門跡などの「当知行」を認めるとしているので、諸光がこれを受けて家業復興を試みた可能性もある。また、この諸光の、「不知行」になっている権限を回復しようとしたこと自体は咎められていない秀吉によって「自身は知らされず、したがって文書の偽造である」といわば難癖を付けられた形になっている。しかしここに公家の家業復権を阻止しようとした、つまり「現状に甘んじろ」というのが、玄以の、つまり秀吉の「当知行は従来通り」という本音があらわれているように思われるのである。

 

*1:薄諸光=ススキモロミツ、左衛門権佐(サエモンノゴンノスケ)正五位下

*2:判の偽造。公私文書の偽造である「謀書」とならび、中世では死罪とされ、18世紀には「引き廻しの上獄門」が加わった

*3:ニンまたはジン、役銭を徴収する者

*4:皇族や貴族の子弟が入寺している寺院

*5:天正13年

*6:元長、安芸国山県郡火ノ山城主

*7:1634~1635号

*8:『大日本史料』第11編21冊16頁以下 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1121/0016?m=all&s=0016

*9:『大日本史料』第11編19冊160頁 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1119/0160?m=all&s=0159&n=20

*10:諸光

*11:混乱させること

*12:イコム、幽閉する

*13:前田部卿印玄以

*14:見張る

*15:減らし

*16:という噂/話だ

天正13年9月10日一柳直末宛豊臣秀吉朱印状写

 

この前日秀吉は「藤原朝臣」(フジワラノアソン)から「豊臣朝臣」(トヨトミノアソン)に改姓している*1。正確には「豊臣」は「氏姓」であり、「名字」は変わらず「羽柴」なので「羽柴秀吉」と呼ぶべきか、「豊臣秀吉」に改めるべきか議論のわかれるところであるが、当ブログではそこまで踏み込まず慣例にしたがい、天正13年9月9日以降の秀吉を「豊臣秀吉」と呼ぶ。ちなみに「氏姓」である「豊臣」*2を考慮して「トヨトミヒデヨシ」と読むべきであるという議論もある*3

 

 また、黒田基樹氏は『羽柴を名乗った人々』*4において、「豊臣政権」ではなく「羽柴政権」と呼ぶべきと主張しているが、これも上記のような事情によっている。

 

◆2020年11月12日追記◆ 当ブログでは秀吉の政権を改姓前後にかかわらず統一的に「豊臣政権」と呼ぶことにしてきた。これは「そう呼ぶのがふさわしい」と主張するものではなく、便宜上であって「羽柴政権」と呼ぶ方がより実態に近いという考え方を斥けるつもりは毛頭ない。では「秀吉政権と呼んでみたらどうか」という意見も当然ありうるが、結果的に彼一人の政権だったものの、秀吉が秀次や秀頼に政権の継承を望んだことをネグレクトしてしまう上、下の名前に政権を付けることに抵抗があるという個人的な好みも絡むのでさしあたり「豊臣政権」としたい。

 

 

さてこの頃、秀吉は大柿城を預けていた加藤光泰の振る舞いに問題があるとして、去就について家臣に意見を求めた。9月3日付直末宛朱印状によれば理由は次の通りである*5。 重複している部分もあるが、一つ書きごとに書き出してみた。

 

  • 「かなめの所大柿之城」、「大柿のこと、肝心のところに候条・・・自然東国あたりへ人数を遣わし候ときの兵粮のために、蔵入七千石、代官としてこれも作内(加藤光泰)に預け置き候ところ」を預けているのに、その恩を忘れ家臣に過分な知行を与えていること。
  • 人を過分に抱え、蔵入地にも給人をつけるべきと「言語道断」の意見を秀吉にしたこと。
  • 大柿のかなめの城」周辺に2万貫を与え、蔵入地7千石の代官も仰せつかっているのに、知行に分不相応な人数を抱えていること。
  • 隣接する稲葉貞通と池田照政の領地*6や、近江の知行地においても光泰の知行地が入り組んでいるので「心の内には国の動乱出来候べかし」(心中で国を傾けると企てているに違いない)と懸念される。彼にそのまま大柿城を任せるべきか、それとも追放すべきか本書面をもって尋ねているので、どちらかひとつの意見を選択すること。

  • それぞれにとって重大な問題であるので、誓紙を差し出すこと。返事を「待ち入り候なり」。

 

 翌4日、早くも直末に光泰の後任として「早々大柿へ相越し、城請け取り申すべく候、ならびに蔵入のこと、同前に代官申し付け候*7と書き送っていることから、家臣に意見を求め、その上で決するというのはどうも形だけだったらしい。さらに8日には「大柿へ遣わされ候こと、慥かなる者と思し召し候て越し候」と直末を信頼しているからこその命である旨述べている*8

 

これを図示してみた。

Fig. 美濃国大柿城および周辺知行地概念図

 

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    尚以、米も大豆もつかい候て、新米其方内入替可申候、以上、
大柿*9之城請取候由、得其意候、能〻可申付事肝用候、就中城米大豆合五千俵事、其方在〻配当以下ニ遣之、新米出来次第ニ、其方内ニ入替可申候、当座先可為要意候間如此候、大豆分又米分付分*10尤ニ候、猶木下半介*11・森三右衛門*12申候也、
  九月十日*13 秀吉公御朱印
    一柳市介殿*14
『秀吉文書集二』1620号、225頁
 
(書き下し文)
 
 大柿の城請け取り候よし、その意を得候、よくよく申し付くべきこと肝用に候、なかんずく城米・大豆合わせて五千俵のこと、その方在〻配当以下にこれを遣わし、新米出来*15次第に、その方内にて入れ替え申すべく候、当座先要意たるべく候あいだかくのごとくに候、大豆分また米分付分もっともに候、なお木下半介・森三右衛門申し候なり、
なおもって、米も大豆も遣い候て、新米その方内入れ替え申すべく候、以上、
 
(大意)
 
 大柿城の引継を無事に終えたとのこと、よくよく下々の者へ言い聞かせることが大切です。なかでも城米大豆合計5千俵については、そなたが村々へ割り当て与え、新米の刈り取り次第新米と城米を入れ替えてください。当面用心すべき状況ですのでこのように命じます。詳しくは木下吉隆・森三右衛門が申します。
 
追伸、米も大豆も与えて、新米を確保するように。以上。
 
 
下線部がわからないのでスキップしたが、おおむね兵粮である米、馬糧である大豆の備蓄について指示したものである。

 

*1:1618号、なお豊臣改姓の時期について天正14年12月との説もあるが、ここでは遠藤珠紀「朝廷官位を利用しなかった信長、利用した秀吉」179~180頁にしたがい「このころ」とした。日本史史料研究会監修、神田裕理編『新装版 ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち』文学通信、2020年所収

*2:より厳密には豊臣が「氏」で、「姓」は朝臣であり、「名字」は羽柴のままである。甥の秀次は関白就任時、豊臣氏の「氏長者」である「豊氏長者」に任じられており、「豊臣」が「氏」であったことを示している。遠藤珠紀上掲177頁

*3:e.g.平清盛=タイラキヨモリ、中臣鎌足=ナカトミカマタリ、菅原道真=スガワラミチザネet al.

*4:10~11頁、角川選書、2016年

*5:1614号

*6:こちらを参照されたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

*7:1615号

*8:1617号

*9:大垣、美濃国安八郡

*10:未詳

*11:吉隆

*12:未詳

*13:天正13年

*14:直末

*15:シュッタイ

天正13年9月2日中川秀政宛羽柴秀吉朱印状

 
 
   尚以帳面ハ此方へ上帳候*1間、郡〻在所案内者*2可相越候、以上、
態申遣候、豊島*3・太田*4両郡ニ給人相付候、然者郡〻在所付引可渡候之条*5、両郡之案内者早〻可相越候、無由断継夜日可差越候也、
  九月二日*6(朱印)
 
     中川藤兵衛とのへ*7
 
『秀吉文書集二』1611号、223頁
 
 (書き下し文)
 
わざわざ申し遣わし候、豊島・太田両郡に給人相付け候、しからば郡〻在所につき引き渡すべく候の条、両郡の案内者早〻相越すべく候、由断なく夜日を継ぎ差し越すべく候なり、
なおもって帳面はこの方へ上帳に候あいだ、郡〻在所案内者相越すべく候、以上、
 
 
(大意)
 書面をもって申し入れます。豊島・太田両郡において給人に知行地を与えることになりました。そういうわけですから、在地の引き渡しに必要な現地の案内者を早急に派遣してください。油断なく夜を昼に継ぎこちらへ向かわせるようにしてください。
なお、「帳面」はこちらへ差し出すものですので、案内人を遣わしてください。
 
 

 

摂津国は郡域・郡名ともに変化がめまぐるしく、下表のように複雑な経緯をたどる。中世後期以降権力も分散し、戦国大名のように国レベルを統一的に支配する者も現れなかった。この点では秀吉も、徳川将軍家もまた同様で明治にいたるまで「非領国地域」を「解消」することはなかった。

 

Fig. 摂津国豊島・太田両郡関係図

 

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                   『日本歴史地名大系』兵庫県より作成

 

Table. 摂津国郡域・郡名変遷

 

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天正13年閏8月以降、秀吉は家臣の知行替えを一斉に行う。いわゆる「大名の鉢植え化」と呼ばれるもので、武家と在地を切り離す「兵農分離」*8の一環である。

 

中川秀政は摂津茨木城を根拠とする国人領主であったが、このとき播磨国三木郡、加東郡に6万5千石余を与えられた。そのさい「引継」を行うにあたって在地の事情に詳しい「案内者」を急ぎ派遣するよう促したのが本朱印状である。

 

検地では現地に役人が赴き、住人に案内させるが、ここでは「早々相越すべく候」とあるのでおそらく「案内者」を呼び寄せ、口頭で処理をすませたものと見られる。

 

 

*1:「帳面」は秀吉に差し出す帳簿である。この「帳面」が具体的に何を指すのかは不明だが、同日町野重仍・上部貞永両名宛の朱印状にも「帳面通りをもってよくよく引き渡し申すべく候」(1612号)とあり、同様の手続きを踏んだようである

*2:事情に通じている者、在地の有力者と考えられる

*3:テシマ、摂津国。図および表参照

*4:同国。図表参照

*5:豊島・大田両郡にある中川氏の旧領地を他の給人に与えるので引き渡すように

*6:天正13年

*7:秀政

*8:近年は「兵」は武士身分とは限らないので、より実態に即した「士農分離」と呼ぶべきとされる

天正13年閏8月18日小早川隆景宛羽柴秀吉朱印状

 

黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(角川選書、2016年)26頁の「小早川隆景」にさりげなく「たかしげ」と振ってあるのを見て、遅まきながら「たかかげ」でないことを知った記念に、その隆景にあてた秀吉朱印状を読んでみたい。

 

 

(端裏)

「(墨引)」*1

 

去月*2六日書状、今日江州至坂本到来、令披見候、誠遼遠*3候之処、切々*4飛脚*5、悦入候、仍北国面儀、去十四日返書如申遣、越中・飛弾*6国共ニ平均申付、慥成物主*7相付、国之置目等相定、昨日十七、坂本迄納馬候、与州*8国中諸城被請取候哉、自然相滞儀候者、蜂須賀*9相談、此方へ可被申越候、国之置目等入念申付候条、可心易候、尚期来音*10候也、

   壬*11八月十八日*12(朱印)

      小早川左衛門佐殿*13

『秀吉文書集二』1573号、211頁
 
(書き下し文)
 
 
去る月六日の書状、今日江州坂本にいたり到来、披見せしめ候、まことに遼遠に候のところ、切々飛脚、悦び入り候、よって北国おもての儀、去る十四日返書申し遣わすごとく、越中・飛弾国ともに平均申し付け、たしかなる物主相付け、国の置目など相定め、昨日十七、坂本まで納馬候、与州国中諸城請け取られ候や、自然相滞る儀そうらわば、蜂須賀相談じ、この方へ申し越さるべく候、国の置目など入念申し付け候条、心易んずべく候、なお来音を期し候なり、
 
(大意)
 
去る8月6日付の書状、本日近江坂本に到着し拝読いたしました。まことに遠くからたびたび使者を遣わされ、喜んでおります。さて北陸の佐々成政攻めについては、14日付の返書に申しましたように、越中・飛騨両国ともに平らげ、たしかなる者に現地を任せました。国の決まりなども定め、昨17日坂本まで帰陣しました。伊予国中の城は無事お受け取りになったでしょうか。もし滞るようなことがあれば、蜂須賀正勝に相談し、こちらへお申し越しください。置目など入念に申し付けますのでご安心ください。またの機会にでも。
 

 

 Fig. 越中・飛騨両国位置

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                   『国史大辞典』「飛騨国」より作成

伊予国を小早川隆景に与えたあと、敵方の城を無事に受け取ったかどうかを案じた手紙で、朱印状ではあるが慇懃な文面である。もし何かあれば蜂須賀正勝を通じて秀吉に相談するようにとも記されている。 

 

*1:折り目に「〆」と書いて封印する

*2:8月

*3:リョウエン、はるかに遠いさま

*4:たびたび、心のこもった

*5:文字通り「速く走る者」、「手紙を運ぶ者」の意。ここでは使者

*6:

*7:モノヌシ。戦陣の部隊長の意で金森長近のこと。「武主」とも

*8:伊予国

*9:正勝

*10:ライイン。人が訪ねてくること、たより

*11:

*12:天正13年

*13:隆景、「左衛門佐」は左衛門府の次官(スケ)である「佐」の意

天正12~13年の秀吉と脇坂安治の心温まる文通

 

兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵の龍野神社旧蔵文書には秀吉が脇坂安治にあてた朱印状が多数残されている。これらの文書は火災に遭ったがさいわい焼失はまぬがれ、修復作業を経て2016年に公開された。そのいきさつについてはこちらを参照されたい。

 

www.hyogo-c.ed.jp

 

このうち天正12年から翌13年にかけての朱印状の、叱責と督励の文言に注目してみたい。「血気盛んだが地味な作業にやる気が出ない」安治と、「沙汰の限りである」と激怒しつつも決して見捨てず、一人前に育てようと努める秀吉の、2年にわたるハートウォーミングな文通である。それらを一覧にしたのが下表である。

 

Table. 天正12~13年脇坂安治宛羽柴秀吉朱印状一覧

 

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天正12年9月17日(上表3) あたりから、秀吉は安治を叱責する。翌10月28日付(4)でも遅延するようなら成敗を加えると、安治の重い腰を上げるよう促しはじめる。11月12日付(7)では「沙汰の限り」*1と最大級の怒りの表現をとっている。この状況は翌年も続き、同13年閏8月7日付(17)からは安治が返事を出し渋っていることも読み取れる。

 

しかし、9月1日には彼に摂津国に1万石を与え(23)、同月中に淡路国の「指出面寄帳」という2020年時点で秀吉最古の検地帳を授けており(24)、決して秀吉は安治を見捨てなかった。

 

実はこの間、閏8月13日付で神子田安治および妻子を放逐する旨の朱印状を発しており(21)、秀吉がことのほか鷹揚であったわけではない。上述の龍野神社旧蔵文書が「発見」されるまで重要な部分が破損していたが(下線部分)、2016年報道されたように実に興味深い文言であるので掲げておこう。

 

 

 

(前略)仍神子田半左衛門尉事、対主君口答、剰構臆病、背置目奴原思召出候へ者、御立腹不浅候之条、高野をも相払候、成其意、半左衛門尉事ハ不及申、不寄妻子共一人成共於拘置者、其方共以分国中*2可追払候、同秀吉違御意候輩、如信長時之、少々拘候へとも不苦、空憑*3於許容者、旁*4可為曲事候(後略)

 

 

(書き下し文)

 

よって神子田半左衛門尉こと、主君に対し口答えし、あまつさえ臆病を構え、置目に背く奴原と思し召し出でそうらえば、ご立腹浅からず候の条、高野をも相払い候、その意をなし、半左衛門尉ことは申すに及ばず、妻子どもによらず、ひとりなりとも抱え置くにおいては、そのほうども分国中をもって追い払うべく候、同じく秀吉御意に違い候ともがら、信長の時のごとく、少々抱えそうらえども苦しからずと、空頼み許容においてはかたがたもって曲事たるべく候

 

 

 

「抱え置く」とは「匿う」ことで、中世武家社会の慣習であり、この延長線上に鎌倉東慶寺を代表とする「縁切寺」があったと言われている*5。しかし秀吉は「信長時代とは異なり、多少は目をつぶってくれるだろうと高をくくってはならない」と釘を刺す。ある意味信長が中世的なルールに寛容であったのに対し、秀吉はそれをここで否定する。

 

自分に対して「思し召し出で」、「ご立腹」、「御意」といった自敬表現も、「信長の時のごとく」と好対照をなしている。

 

神子田に対しては妥協の余地ない仕打ちであるが、脇坂安治にはほぼ1年半も「温かく」見守っている。また安治の方も何度も日延べしたり、返事を出し渋ったり、越中の佐々成政討伐に出陣してみたいだの言い出していて(12)、現実逃避を試みるところが現代と変わらずとても好感が持てる。

 

 

*1:「沙汰の限り」も「沙汰の限りにあらず」も同じ意味で「言語道断である」、「もってのほかである」の意

*2:領地

*3:ソラダノミ、実現するあてのない期待をすること

*4:以脱カ

*5:現代のシェルターで「無縁所」=アジールとされる