日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年3月24日白樫宛羽柴秀吉朱印状写

 

 

   書状加披見候、
一、今度之忠節感悦候、依其令出馬根来寺*1押詰*2、悉令放火候、明日平次*3陣替候、紀之湊*4要害可申付見及*5候、
一、湯川*6事、何とそ候て不宜様調義*7、可加成敗候、追〻中村孫平次*8・九鬼右馬允*9其外差越、其上秀吉可出馬候間、其迄是非とも不宜様可有調儀事、
一、此方礼儀*10被越候段、遅〻候て不苦候条、其表弥才覚専一候、猶追〻吉左右*11待覚候、謹言、
   三月廿四日*12                          秀吉公朱印
       白樫とのへ*13
『秀吉文書集二』1364号、148頁
 
(書き下し文)
 
   書状披見を加え候、
一、このたびの忠節感悦に候、それにより出馬せしめ根来寺押し詰め、ことごとく放火せしめ候、明日平次城へ陣替え候て、紀之湊要害申し付くべくと見及び候、
一、湯川のこと、なにとぞ候てよろしからざるよう調義候て、成敗を加うべく候、追〻中村孫平次・九鬼右馬允そのほか差し越し、そのうえ秀吉出馬すべく候あいだ、それまで是非ともよろしからざるよう調儀あるべきこと、
一、このほう礼儀越され候だん、遅々候ても苦しからず候条、その表いよいよ才覚専一に候、なお追〻吉左右待ち覚え候、謹言、
 
(大意)
 
   書状拝見しました。
一、このたびの働き喜びに堪えません。おかげで出陣し根来寺の門徒を追い込み、堂宇を焼き尽くしました。明日土橋の城へ入り、紀之湊に要害をつくるよう命じるつもりです。
一、湯川直春のこと、和議が調わぬようにし、攻撃してください。おって中村一氏・九鬼嘉隆などを派兵し、そのうえで秀吉みずから出陣するのでそれまでは和議を結んではなりません。
一、こちらへの挨拶は遅れても構いません。そちらの合戦に集中してください。なお吉報をお待ち申し上げています。謹んで申し上げました。
 
 

 

発給人の位置に「秀吉公朱印」とあるのは、ここに秀吉の朱印が捺されていたという意味であって、必ずしも「秀吉(朱印)」とあったことを意味しない。ただしこの時期の秀吉は「秀吉」の署名に朱印を据えているので、「秀吉(朱印)」の可能性は高い。署名がなくなり、朱印のみとなるのは文書の薄礼化、つまり自分の社会的地位の高さを受給人に可視化することを意味する。

 

花押の場合は「御書判」*14などと書かれる。翌25日付の白樫左衛門尉宛書状写に「秀吉公書判」とあるのが典型である*15。また30日付白樫主馬助宛朱印状写には「秀吉公朱印」とあり*16、これらの写が原本に忠実に書写されただろうと推察される。 

 

 Fig. 紀州攻め関係図

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                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成

さて本文書は天正13年3月21日から始まった秀吉による紀州攻めに関するもので、小牧長久手合戦で徳川・織田と和議を結ぶと、根来衆・雑賀衆らが和泉国内に築いた諸城を攻め、23日に根来寺を、24日に粉河寺を焼いた直後に発せられた。紀伊国は根来衆や雑賀衆などの在地の有力者が水平的な関係を結ぶ一揆的体制が残り、有力な戦国大名が生まれなかった地域である。そうした点では畿内によく似ている。

 

 

25日に土橋氏の居城へ入り、紀之湊に要害をつくる予定であり、日高郡を拠点とする湯川氏討伐を在田郡の白樫氏に依頼し、中村一氏・九鬼嘉隆両軍を派兵し、その後秀吉本隊が紀伊に入る旨述べている。上述30日付の白樫主馬助宛朱印状写*17によると湯川左太夫、同四郎兵衛ら6名の首が秀吉のもとへ届いている。

 

*1:紀伊国那賀郡。「学侶」と「行人」に分かれ、後者は僧兵化し小牧長久手合戦では秀吉と戦う

*2:追い込む

*3:土橋種治

*4:紀伊国名草郡

*5:遠くまで見通す

*6:湯川直春、紀伊国日高郡亀山城主

*7:策略・計略。ここでは和議を破談にすること

*8:一氏、和泉国和泉郡/南郡岸和田城主

*9:嘉隆、もと志摩の国人でのち秀吉水軍の総大将。伊勢湾・熊野灘・紀伊水道一帯の制海権を掌握

*10:挨拶

*11:キッソウ、吉報

*12:天正13年

*13:左衛門尉または主馬助、もしくは両名。紀伊国地侍

*14:カキハン、文字通り自筆で書く「判」

*15:1366号、148~149頁

*16:1369号、149頁

*17:1369号

天正13年3月17日大円坊宛羽柴秀吉書状

 

 

(包紙ウハ書)

「 大円坊*1                       秀吉  」

 

去正月廿一日之書状令披見候、仍佐竹*2・佐修*3・天徳寺*4・宇都宮*5書状、何も及返札*6候、能〻可被相届*7候、随当表*8之儀、無残所属存分候、将又其表事、去秋以来*9義重*10・氏直*11雖対陣候、依為節所*12互被納馬*13之処、氏直以計策新田*14・館林*15両地請取、于今居陣之由候、依之義重近日可為出馬之由候、無越度候様、各相談肝要候、然者氏直事も家康*16同意之儀候之間、我々令助言無事*17可執噯*18、自然於許容*19者、出人数可随其候、尚期来信候、謹言、

   三月十七日*20                               秀吉(花押)

     大円坊

 

『秀吉文書集二』1354号、145頁

(書き下し文)

 

去る正月廿一日の書状披見せしめ候、よって佐竹・佐修・天徳寺・宇都宮の書状、いずれも返札におよび候、よくよく相届けらるべく候、したがって当表の儀、残るところなく存分に属し候、はたまたその表のこと、去る秋以来義重・氏直対陣候といえども、節所たるにより互いに納馬せらるるのところ、氏直計策をもって新田・館林両地請け取り、今に居陣のよしに候、これにより義重近日出馬たるべくのよしに候、越度なく候よう、おのおの相談じ肝要に候、しからば氏直のことも家康同意の儀に候のあいだ、我々助言せしめ無事に執り噯うべく候、自然許容においては、人数を出だしそれに随わすべく候、なお来信を期し候、謹言、

 

(大意)

 

去る正月21日付の書状拝読しました。佐竹義重・佐野昌綱・天徳寺宝衍・宇都宮国綱からの書状、いずれも返書をしたためました。うまくいくことでしょう。こちらは残るところなく平定しました。またそちらは昨年の秋から佐竹義重と北条氏直が対陣していましたが、膠着状態が続いたので兵馬を引いたところ、氏直が計略によって新田・館林を手に入れ、現在まで陣を構えているとのこと。これに対抗すべく義重が近日中に出馬するとのこと。間違いのないようによくよく相談してください。そうすれば氏直のことも家康が同意しているので、われわれが「助言」し和平の仲裁をします。万一陣を引かないのならば、軍勢を出ししたがわせるようにします。ではまた。謹んで申し上げました。

 

 

 

 Fig. 上野国・下野国関係図 

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                   『日本歴史地名大系』群馬県より作成

小牧長久手で対陣している秀吉と家康が、それぞれ同盟を結んでいる佐竹氏らと北条氏が対立していることの和議について述べたものである。

 

下線部で示したように佐竹氏らと北条氏の和平を、家康との同意の下秀吉の「助言」により仲裁するという手順を踏んでいる。もちろん直後に軍事力を背景にした武力行使も厭わないと仄めかしてはいるが。

*1:未詳、秀吉家臣でのち井伊家に仕えた溝江彦三郎カ

*2:義重、常陸国久慈郡太田城主

*3:佐野修理進宗綱、下野国安蘇郡唐沢山城主

*4:宝衍、佐野宗綱または昌綱の弟

*5:国綱、下野国河内郡宇都宮城主

*6:返信

*7:目的を達する

*8:小牧長久手合戦の状況

*9:天正12年7月、秋は7~9月

*10:佐竹

*11:北条

*12:峠などの交通の難所、要害。ここでは陣地に立て籠もってにらみ合っている状態

*13:兵馬を引くこと、戦いをやめること

*14:上野国

*15:同上

*16:徳川

*17:和平

*18:トリアツカウ、仲裁する

*19:新田・館林の陣を堅く守ること

*20:天正13年

天正12年7月23日久徳新介宛羽柴秀吉朱印状

 

 

就用水之儀、河尻与四郎*1其方申分在之由候、先年与兵衛尉*2並左近兵衛尉*3時、美濃守*4双方之申分聞届相済候由候、所詮最前之儀者不入*5候、向後三分一高宮*6へ用水可相通候、為其申越候、恐〻謹言、

        筑前守                        
   七月廿三日*7                        秀吉(朱印)   
     久徳新介殿*8
        進之候
『秀吉文書集二』1156号、62頁
 
(書き下し文)
 
用水の儀について、河尻与四郎とその方申し分これあるよしに候、先年与兵衛尉ならびに左近兵衛尉のとき、美濃守双方の申し分聞き届け相済み候よしに候、所詮最前の儀は入れず候、向後三分一高宮へ用水相通すべく候、そのため申し越し候、恐〻謹言、
 
(大意)
 
 用水の件について河尻秀長とそなたそれぞれ言い分があるとのこと。先年秀隆と左近兵衛尉の代に、秀長がそれぞれの主張を聞き決着したそうですが、結局秀長の裁定は破棄します。今後は三分の一を高宮へ用水として通すようにしてください。そのため書面にて申し入れました。
 
 

  

 Fig. 近江国犬上郡高宮および久徳左近兵衛尉知行地周辺図(朱が久徳左近兵衛尉知行地)

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             秀吉766号、信長240号、『日本歴史地名大系』滋賀県より作成


下線部の「先年」がいつ頃のことを指すのか考えてみたい。
 

近江犬上郡の土豪である久徳左近兵衛尉は、同じく犬上郡土豪の高宮左京亮を元亀1年12月27日に敗走させている*9。また信長家臣の河尻秀隆は延暦寺焼き討ち直後の元亀2年9月21日、高宮左京亮を佐和山城にて謀殺し、25日には丹羽長秀と連名で多賀大社宛に以下の条規を下している。

 

 

一、多賀社中ならびに地下*10の儀、御朱印の旨に任せ相拘うるうえは、誰々兎角申すといえども一切承引あるべからざること、

一、高宮衆預け物*11、このたび相改むるうえは、向後別人申し分これあるべからざること、

一、向後尾州・濃州衆、社中・地下に対し、自然申すことこれあらば、神官の儀は申すに及ばず、近所衆に相語り、拘え置き佐和山へ注進あるべし、速やかに申し付くべきのこと、

                            丹羽五郎左衛門尉

  元亀弐年九月廿五日                        長秀(花押)

                            河尻与兵衛尉

                                   秀隆(花押)

 
 

 

 

 この点から「先年」が元亀2~3年のことを指すのは間違いない。美濃国出身の秀隆が、久徳氏ら旧来勢力との間で用水をめぐって争い、その裁定を秀長が行ったのであろう。秀隆は本能寺の変に接した武田氏旧臣の主導する一揆によって殺害され、他方の久徳氏も代替わりしたためか、水論が再燃したようだ。

 

 久徳郷と高宮郷は近代にいたっても用水をめぐって激しく対立した。赤井田堰である。久徳郷は明治13年の水論において本文書の趣旨が長年の慣行であると主張している*12

  

*1:秀長

*2:河尻秀隆

*3:久徳左近兵衛尉、犬上郡久徳郷の土豪。天正11年8月1日近江国犬上郡多賀庄などで3千石を秀吉から充て行われている。765、766号

*4:羽柴秀長

*5:「入れる」は相手の主張を採用する、受け入れること

*6:近江国犬上郡、図参照

*7:天正12年

*8:久徳左近兵衛尉の息カ

*9:元亀2年1月2日久徳左近兵衛尉宛織田信長判物、奥野269号

*10:多賀庄の百姓ら

*11:貸借物

*12:滋賀県立公文書館展示「水と生きる滋賀の人びと」 7頁目 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5108970.pdf

天正12年7月8日梶原政景宛羽柴秀吉書状

 

 

五月十五日之御状、当月六日参着、致拝見候、仍北条氏直至于其国*1相動付、義重*2被乗向御対陣之由候、可被属*3御存分事、不可有程候、将又尾濃*4其外悉任存分候之条、可御心安候、然者休息人馬候、来八月ニ北国西国人数相催、遠三両国*5迄押詰*6、可相働*7存、去月廿八日大坂へ納馬候、併境目置目等*8為可申付、拙夫*9儀者明日江州坂本へ罷立候、何様重従是以使札*10可申入候之間、不能詳候*11、恐〻謹言、

   七月八日*12                               秀吉(花押)   
    梶原源太殿*13
       御返報
 『秀吉文書集二』1138号、57頁

 

(書き下し文)

 

五月十五日の御状、当月六日参着、拝見いたし候、よって北条氏直その国にいたり相動くについて、義重乗り向かわれ御対陣のよしに候、御存分に属さるべきこと、ほどあるべからず候、はたまた尾濃そのほかことごとく存分に任せ候の条、御心安んずべく候、しからば人馬を休息し候、来たる八月に北国・西国人数相催し、遠三両国まで押し詰め、相働くべきと存じ、去る月廿八日大坂へ馬を納め候、あわせて境目置目など申し付くべきため、拙夫儀は明日江州坂本へ罷り立ち候、なにようかさねてこれより使札をもって申し入るべく候のあいだ、詳らかにあたわず候、恐〻謹言、

 

(大意)

 

五月十五日付のお手紙、当月六日に到着しましたので拝読しました。北条氏直が常陸国に軍勢を出したことに対して義重が対陣されたのこと。御存分に打ち負かすのもまもなくのことでしょう。また尾張や美濃もことごとく平定しましたのでご安心ください。そうしたわけで人馬を休ませ、来月には北国・西国からも軍勢を呼び寄せ、遠江、三河まで遠征し戦うべきと思い、先月二十八日に大坂へ一度陣を引きました。また境目の仕置を行うため、私は明日近江坂本ヘ出発する予定です。今後は使者に申し伝えますので詳細は割愛します。謹んで申し上げました。

 

 

 

梶原政景は書状を出したあと返事を待つあいだの6月13日、佐竹側から北条側へ寝返っており*14、5月15日付の書状の到着が7月6日というのも気になる。政景はその後また佐竹側に寝返ったので、秀吉は頃合いを見計らったのかもしれない。

 

戦況は秀吉側に著しく有利であると書かれているが、実情はそうではなかった。

 

北条氏と佐竹氏が激突したのは下野の沼尻である。

 

Fig. 沼尻合戦周辺図

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『日本歴史地名大系』栃木県、斎藤慎一『戦国時代の終焉』(中公新書、2005年)より作成

 

 なお4年後の天正16年9月2日、太田資正*15・梶原政景宛朱印状*16において「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」と北条氏直との国分を秀吉が行う旨述べている*17

 

この年の8月、小田原城主北条氏直の叔父にあたる氏規が上洛している。その様子を「多聞院日記」は次のように伝える。

 

 

京都へは東国より相州氏直の伯父*18美濃ノ守*19上洛し、東国ことごとく和談相調いおわんぬとうんぬん、奇特不思儀*20のことなり、天下一等*21満足に充満*22

『多聞院日記』天正16年8月18日条

 

東国の「和談」がすべて調い、「天下」の者はみな満足げであったと。この「和談」の具体的な内容が上述の「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」である。

 

しかしこの東国の和平は翌々年には全面武力衝突というかたちで頓挫することになる。とんだぬか喜びをさせられたわけである。

 

*1:常陸国

*2:佐竹

*3:支配下に置く

*4:尾張国、美濃国

*5:遠江、三河両国

*6:追い込む

*7:戦う

*8:三河以東の国分のことか

*9:秀吉、自身をへりくだっていう語

*10:使者に持たせる書状

*11:詳しくは申し上げられません

*12:天正12年

*13:政景、常陸国佐竹義重に属す

*14:『大日本史料』天正12年6月13日条、第11編7巻、432頁以下 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1107/0432?m=all&s=0432&n=20

*15:武蔵岩付城主→常陸片野城主。資正は政景の父

*16:『秀吉文書集三』2603号、272頁

*17:同日付同文の佐竹義斯・佐竹義久宛および多賀谷重経・水谷勝俊宛の朱印状も発給されている。同上2602号および2604号

*18:伊勢貞丈は「貞丈雑記」にて「伯」は「あに」と読み「叔」を「おとうと」と読むので、伯父・叔父(伯母・叔母も同様)は長幼によると述べ、父方を「伯父・伯母」、母方を「叔父・叔母」とするのは誤りとする。一方本居宣長は「古事記伝」において父親の兄を「伯父」、弟を「叔父」と書き分けるのは中国の風習であり我が国のものではないと述べている。なお氏規の母親は氏直の父方の実祖母である

*19:氏規

*20:比類のないほど珍しく不思議な、奇蹟のような

*21:

*22:ミチミチ

天正12年6月15日羽柴秀吉楽田表加勢衆書上

 

   かくてん*1表加勢衆其外六月廿日より十日分被遣候衆之事
三百人               伊藤かもん*2
弐百五十人             福島市兵衛*3
(中略)
四千四百七拾人           御次殿*4
             合壱万千弐百人           ・・・・・・①
    右十日分八木*5、合五百六拾石         ・・・ ・・・②

       都合*6千弐百九拾五石可相渡者也、    ・・・・・・③

  天正拾弐年六月十五日
秀吉(花押)        
    右之わり*7
        百弐十五石     高田長左衛門尉*8
       四百石       矢野兵部*9
       弐百七十石     山田金助*10
           此内百八十四石請取申候、
       五百石            西蔵坊*11
           合千弐百九十五石      ・・・・・・④
 
(書き下し文)
 
   楽田表加勢の衆そのほか六月二十日より十日分遣わされ候衆のこと
三百人               伊藤掃部
二百五十人             福島市兵衛
(中略)
四千四百七十人           御次殿
             合わせて一万千二百人
    右十日分八木、合わせて五百六十石

       都合千二百九十五石相渡すべきものなり、

 
  天正十二年六月十五日
秀吉(花押)         
    右の割
        百二十五石       高田長左衛門尉
       四百石       矢野兵部
       二百七十石     山田金助
           このうち百八十四石請け取り申し候、
       五百石             西蔵坊
           合わせて千二百九十五石
 
 
(大意)
 
     楽田に加勢する部隊および六月二十日から十日間派遣する部隊について
300人              大将 伊藤掃部
250人              同  福島正信
(中略)
4,470人               同  羽柴秀勝
                              合計11,200人
 この十日分の米は560石
     本隊分と加勢分合わせて米1,295石が必要である。
  天正12年6月15日
秀吉(花押)         
       これの配分は
        125石       担当 高田長左衛門尉
        400石       同  矢野兵部
        270石       同  山田金助   
          このうちの184石はすでに受け取っている。
        500石       同  西蔵坊
           合計 1,295石
 
 

 

本文書は秀吉が兵士の数に対して支給すべき米穀の量を定めたもので、小牧長久手合戦において兵站を重要視していたことを示している。

 

戦闘面においても軍勢の配置を記した「陣立書」という文書をこのときはじめて作成しており、大規模集団戦を強く意識していた*12

 

さて①の加勢・派遣部隊の人数は11,200人であり、これに対して10日分として②のように560石を割り与えている。つまり

 

   ②/①*1/10=0.005

 

でひとりあたり一日5合となる。5合は家庭用炊飯器約1杯分に相当する。「腹が減っては戦はできぬ」*13といってもさすがに食い過ぎである。数に入っていない従者の分も含まれていたのか、残りは報酬とされたのか、あるいは酒などを買うのにあてたのか本文書だけではわからない。

 

また本隊分ともに合わせて③の分だけ必要なので、高田長左衛門尉らにこれを用意するよう割り振っている。その合計が④(=③)である。

 

以上のように秀吉が戦闘面と兵站の両面に気を配っていたことがわかる。

 

*1:尾張国丹羽郡楽田

*2:掃部助祐時

*3:正信、正則の父

*4:羽柴秀勝、秀吉の養子

*5:「八」と「木」で「米」、「神」を「ネ申」で表すのと発想は同じ

*6:加勢部隊に加えて従来から在陣していた本隊の分総計

*7:割、割り当て・分配

*8:176号文書に浅野長吉とともに兵粮確保の任に当たっていることが見える

*9:未詳

*10:秀吉の馬廻、朝鮮の役では軍馬の徴発に従事

*11:未詳

*12:『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』コラム「陣立書の成立」267頁

*13:『世界ことわざ比較辞典』400頁、岩波書店、2020年によればこれに類する言い回しは17世紀末松尾芭蕉の「ひだるき(ひもじさ)はことに軍の大事なり」が初出で、20世紀はじめにヨーロッパのことわざが訳出された際「腹ガヘッテハ軍ガ出来ヌ」が見えることから、人口に膾炙したのはごく最近のこととしている