昨日七日御状至長浜*1到来、令拝見候、此表事、取出*2二ツ相拵、人数丈夫ニ残置、安土へ打入*3候之処、留守ならハ可参と、柴田罷出、此方取出之惣構*4へ働候処、鉄炮をそろへはなしにて候へハ、手負数多出かし*5失手*6、元之高山*7へ北*8上、于今在之事ニ候、然ニ秀吉重而出馬申付候条、於時宜*9者可御心安候、将亦峯城*10儀、(闕字)殿様*11被寄(闕字)御馬付而、弥無御由断之旨尤候、猶追〻可申承候、恐〻謹言、
羽筑
四月八日*12 秀吉(花押)
多新様*13
御返報
「一、636号、202頁」
(書き下し文)
昨日七日御状長浜にいたり到来し、拝見せしめ候、この表のこと、取出ふたつ相拵え、人数丈夫に残し置き、安土へ打ち入り候のところ、留守ならば参るべきと、柴田罷り出で、この方取出の惣構へ働き候ところ、鉄炮を揃え放しにて候えば、手負あまた出でかし手を失い、もとの高山へにげ上り、今にこれあることに候、しかるに秀吉かさねて出馬申し付け候条、時宜においては御心安んずべく候、はたまた峯城の儀、殿様御馬寄せらるについて、いよいよ御由断なきのむねもっともに候、なお追々申し承るべく候、恐〻謹言、
(大意)
昨七日お手紙長浜にて拝見いたしました。こちらは出城をふたつ作り、軍勢を十分に残して置いて安土城へ退却させたところ、留守なら攻めてしまえと柴田軍が攻めてきました。こちらの出城に向かってきたところを鉄炮で一斉に撃ち、負傷者を多数出し、兵を失い高山に逃げていきました。さらに攻撃するよう命じますので情勢についてはご安心ください。また、峯城については信雄様がお入りになるので油断なくとの心がけはごもっともなことです。なおまた追々お話をうかがいたく存じます。謹んで申し上げました。
Fig.1 近江国長浜・高山周辺図
Fig.2 伊勢国峯城・および東海道周辺図
注目されるのは下線部の、織田信雄を「殿様」と呼び、信雄はもちろんその馬に対しても闕字(一字分空白にする作法)にして敬意を表している点である。充所の多賀新左衛門尉は山崎合戦で明智側として戦うが、戦後秀吉に仕えている。つまり家臣に宛てた書状において信雄に敬意を表している点は重要である。むろん秀吉の本心(野心?)は当然ながら窺い知れないが、少なくともこの時期秀吉はまだ信雄の家臣であり、織田政権の宿老である。かりにこの姿勢が形式的にすぎないとしても、織田政権が正統な権力であったことにかわりはない。すなわち秀吉が政権を簒奪したとは、この時点でまだいえないのである。