日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正11年閏1月12日伊藤吉次宛羽柴秀吉書状

 

 態申遣候、

一、代官所知行方*1之算用聞*2可申候間、手間不入様、下算用能〻仕、書立候て、此方左右*3次第可罷越候事、

一、物成と蔵*4ニあり米*5書立、先早〻もたせ*6可越候、それ*7を見候て、入事候間、不可有由断候、

一、山口*8ニ申付候つる賀茂*9之物成、払方*10蔵ニあり米*11、何もよく書立可越候事、

一、当年ハ八木*12多入候ハん間*13人ニ借*14候事無用候、何も念を入、能仕候て置可申事

一、右何も不可有油断候、尚追々可申聞候、恐〻謹言、

                   筑前守

     閏正月十二日*15         秀吉(花押)

       伊藤与左衛門殿*16

                       「一、574号、183~184頁」

(書き下し文)

 

 わざわざ申し遣し候、

一、代官所・知行方の算用聞き申すべく候あいだ、手間入らざるよう、下算用よくよく仕り、書き立て候て、この方左右次第罷り越すべく候こと、

一、物成と蔵に有米書き立て、まず早〻持たせ越すべく候、それを見候て、入ることに候あいだ、由断あるべからず候、

一、山口に申し付けそうらいつる賀茂の物成、払方蔵に有米、何もよく書き立て越すべく候こと、

一、当年は八木多く入りそうらわんあいだ、人に借し候こと無用に候、いずれも念を入れ、よく仕り候て置き申すべきこと、

一、右いずれも油断あるべからず候、なお追々申し聞けべく候、恐〻謹言、

(大意)

 手紙をもって申し入れます。

一、代官所・知行方の算用について吟味するので、手間がかからぬよう、あらかじめ下算用を済ませ、帳簿に記し、こちらの指示があり次第持参するようにしてください。

一、年貢諸役分と蔵に残った米を書き出し、まず早々にその帳簿を持参させてください。それを確認した上で現地に入りますので油断のないようにしてください。

一、山口に命じました賀茂の年貢諸役は、出払った米と蔵に残った米の量を正確に書き、持参してください。

一、今年は米が大量に必要になるでしょうから、むやみに人に貸し付けず、入念に管理して、貯えておいて下さい。

一、右の四ヶ条いずれも油断のないようにしてください。なお、後日指示を出します。謹んで申し上げました。

 

 

「山口」が誰なのか、「賀茂之物成」が何を指すのかはっきりしない点も多いが、本文書は下線部にあるように、戦時に備えて米の備蓄量を正確に把握し、貯えるよう指示した書状である。このすぐ後秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳において相まみえることになる。伊藤吉次や山口宗永(カ)といった計数能力に優れた家臣に指示している点も興味深い。また「書立」という文言に示されるように文書主義を徹していたことも注目される。

 

なお、この時点では秀吉は依然として信雄を名代としていた。5月のものであるが、信雄と秀吉の関係を窺わせる文書を併せて掲出しておく。

 

 

<参考史料>

 

一、京都奉行職事申付之訖、然上公事篇其外儀、以其方覚悟*17難落著(着)仕儀有之者、相尋筑前守*18、何も彼次第可相極事

  (中略)

右条々可成其意候也、

  天正拾壱年

    五月廿一日                 信雄

   玄以*19

                     「大日本史料」天正11年5月21日条

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1104/0551?m=all&s=0551

(書き下し文)

一、京都奉行職のことこれを申し付けおわんぬ、しかるうえ公事篇そのほかの儀、その方覚悟をもって落着仕りがたき儀これあらば、筑前守に相尋ね、いずれも彼次第相極むべきこと

  (中略)

右条々その意をなすべく候なり、

 

 

 前田玄以を京都奉行職に任じた信雄の判物写である。冒頭、玄以の手に負えない問題については秀吉に判断を仰ぎ、彼に委ねるべきとある。信雄を戴きながら秀吉に実権が移っていたとみるか、信雄が秀吉に全幅の信頼を寄せていたとみるか解釈は分かれるであろうが、いずれにしろ秀吉が信雄を名代とする「織田政権」の宿老だったとはいえる。信雄が秀吉と袂を分かつのは翌天正12年3月のことである。

 

もちろん、本文書の指示通り実現したか否かはあきらかでないし、柴田勝家側の事情がうかがえるわけもない。さらに賤ヶ岳の帰趨を決したなどと軽々に判断することなどできようもない。ここで確認しうるのは秀吉による指示があったことだけであり、実態については別に検討を要する。

 

*1:「代官所」は秀吉の直轄地、「知行方」は秀吉の給人たちに与えた所領と解釈しておくが「代官所」と「知行方」が並列関係にあるのかは解釈が分かれる、はず。いずれにしろ秀吉の在地支配に関する指示であることだけはたしかである

*2:調べる、尋ねる、吟味する

*3:ソウ、指図・命令。秀吉の命

*4:この「蔵」が誰のものかは不明

*5:アリマイ、在庫米。ここでは「物成」分と、そこから差し引いた蔵に残った米の量

*6:

*7:「書き立てた」帳簿

*8:宗永/正弘カ。秀吉は文禄2年6月20日付で、豊後を太閤蔵入地にすると命じたところ多数の百姓が逃散したので召し帰すように、との朱印状を四国・九州の大名に発している(「六、4634~4641号、103~105頁」)。それらの文末に「なお山口玄蕃頭申すべく候なり」と宗永/正弘が登場する。また朱印状の副状に「豊後国お改めに罷り越し候」と自身がしたためているように検地奉行として豊後に出向いていた(文禄2年6月28日島津義弘宛山口宗永書状『島津家文書之四』1683号) 

*9:未詳

*10:支出。ここではすでに蔵から出払ってしまった米

*11:「払方」に対する残高

*12:

*13:今年は米が大量に必要なので

*14:カシ

*15:天正11年

*16:吉次、秀吉の馬廻衆。金銀の運営をつかさどる。cf. 

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*17:判断

*18:秀吉

*19:前田玄以