御状拝見候、仍而此表*1之儀、三介様*2御名代*3ニ相究、若子様*4今日請取*5申、致供奉*6候、当国*7不届*8之仁*9者曲事ニ相臥*10、悉一篇*11ニ申付候条、可有其御心得候、将亦*12委*13儀森勝*14可被申候、恐〻謹言、
羽筑
極月廿一日*15 秀吉(花押)
惟五郎左*16
長秀(花押)
池勝*17
恒興(花押)
同 半左衛門尉殿*19
御返報
「一、544号、175頁」
(書き下し文)
御状拝見候、よってこの表の儀、三介様御名代に相究め、若子様今日請け取り申し、供奉いたし候、当国不届の仁は曲事に相臥せ、ことごとく一篇に申し付け候条、その御心得あるべく候、はたまた委しき儀森勝申さるべく候、恐〻謹言、
(大意)
お手紙拝見しました。織田政権は信雄様を御名代に決め、三法師様のこと今日責任をもって引き受け、臣下の列に加わりました。美濃国においてこれに従わない者がいたならば、曲事として屈服させ、国中を従わせますので、お含み置きください。詳しくは森長可が申し上げます。謹んで申し上げました。
発給人は柴田勝家を除く織田政権宿老三名である。この時点で織田政権における分裂は決定的なものとなった。信雄を名代、つまり中継ぎとし三法師を正統な後継者とする秀吉・長秀・恒興と、織田信孝を擁する勝家の二派に分裂したことをおおやけに認めることにもなる。下線部は美濃国恵那郡の有力者である遠山氏に充てて「こちらに従わなければ武力で屈服させる」とほのめかして、秀吉側につくよう要請しているが、「寛永諸家系図伝」によれば、信長・信忠父子殺害直後、駿河国庵原郡江尻にて本多重次に「自今以後もっぱら大権現に仕え奉るべきの旨を約諾し、濃州に帰りぬ」と見える*20。この記述を鵜呑みにはできないが、遠山氏が早くから家康側に与同したと見ることはできそうである。
「御状拝見」や「御返報」とあるので、遠山父子からの問い合わせに答えるかたちであろうが、遠山氏が発給した文書は見つけられなかった。
また写ではあるが、同日付同父子宛連署状に「其元之儀、森勝蔵御取次等可申旨被(闕字)仰出候段」*21とあり、与同するよう求めている。闕字があることから森長可に遠山氏との取次役を命じたのは、形式上信雄である。また23日にも遠山佐渡守へ回答を促していることから*22、懐柔策が難航していたことがうかがえる。
なお、ここに見える遠山半左衛門尉は天正12年10月18日に戦死しており、遠山氏は徳川方として羽柴軍と戦ったことが分かる*23ので、結局秀吉による遠山氏懐柔策は失敗に終わった。ちなみに遠山氏の勢力範囲は下図に見るように信濃や三河に接している。
*1:ここでは織田政権の意
*3:名代家督のこと。実子が幼少の場合に、養子を立てて嫡子とし、他日実子を養子の嫡子として家督を継がせること。ここでは実子が三法師、養子が信雄
*4:三法師
*5:責任をもって引き受ける
*6:グブ、供に加わること。ここでは三法師の臣下となること
*8:織田政権 ー といっても実質的には秀吉一派のことだが ー に従わないこと
*9:ジン、人
*10:フセ、屈服させる・従わせる
*11:ひとつに
*12:ハタマタ、なおまた
*13:クワシキ
*14:森長可、美濃金山城主。信長家臣、信忠軍に属す。一時信孝に属するが離反して本文書発給時には秀吉の臣下となる。「森家系譜」によれば、秀吉が長可に駿河・遠江二国を与えることを条件に誘ったとある。なお「大日本史料」天正10年是冬条参照 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1103/0184?m=all&s=0184
*16:丹羽
*17:池田
*19:利景の息
*21:545号
*22:548号