宗安*1相越候間、令啓候、我等事、備中之内へ令乱入、かわやか上城*2・すくもつか*3両城取巻、一人も不洩様ニ堀屏柵以下堅申付、従四方しより*4相責*5候、急度可為落去候、小早川*6従当陣取五十町西、幸山*7ニ居陣之由候、此方之者共、毎日幸山之山下迄相越、令放火候へ共、一人も不罷出候、両城討果次第、幸山を可取巻候、就其連々*8如堅約*9此節ニ候之条、御色立*10専一候、御一味中被仰談、可成程*11御行肝要候、此砌御手切なく候ハヽ、重而平均ニ申付候上者、不入事候、海上事、塩飽・能島・来島*12人質を出し、城を相渡令一篇候、次東国之儀、甲州武田四郎*13被刎首、関東之事者不及申、奥州迄平均ニ被仰付、近日(闕字)上様*14被納御馬、則軈而*15此表へ可被成(闕字)御動座旨候、然者従伯耆口*16も御人数*17可被遣候条、急与其表両口*18より可馳向事、不可有程候、早〻御色立不可有御由断候、恐〻謹言、
卯月廿四日 秀吉(花押)
(宛所欠)
(書き下し文)
宗安相越し候あいだ、啓せしめ候、我等こと、備中のうちへ乱入せしめ、かわやか上城・すくもつか両城取り巻き、一人も洩れざるように堀・屏・柵以下堅く申し付け、四方より仕寄相責め候、きっと落去たるべく候、小早川当陣取より五十町西、幸山に居陣のよしに候、この方の者ども、毎日幸山の山下まで相越し、令放火せしめ候えども、一人も罷り出でず候、両城討ち果たし次第、幸山を取り巻くべく候、それについて連々堅約のごとくこの節に候の条、御色立専一に候、御一味中仰せ談じられ、なるべきほど御てだて肝要に候、このみぎり御手切りなく候わば、かさねて平均に申し付け候うえは、入らざることに候、海上のこと、塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡し一篇せしめ候、次に東国の儀、甲州武田四郎首を刎ねられ、関東のことは申すに及ばず、奥州まで平均に仰せ付けられ、近日上様御馬納められ、すなわちやがてこの表へ御動座ならるべき旨に候、しからば伯耆口よりも御人数遣わさるべく候の条、きっとその表両口より馳せ向かうべきこと、程あるべからず候、早〻御色立御由断あるべからず候、恐〻謹言、
(大意)
上原元祐が訪ねてきたので書面にてお伝えします。わたくしどもは備中に攻め入り、宮路山・冠山両城を包囲し、一人も抜け出られないように堀・屏・柵をつくるよう命じ、四方から仕寄を使い攻めています。必ず落城することでしょう。小早川隆景は西50町ほどのところ、幸山城に陣を構えているそうです。当方は毎日幸山城下まで出、放火しているのですが、一人も燻し出されてきません。宮路山・冠山両城を落とし次第、全軍で幸山城を包囲します。それについてはお約束のようにこの時がその時ですので、準備万端御心得下さい。お仲間のあいだでよくよくご相談の上、できるだけの策略を講じることが重要です。この際に毛利方と縁をお切りになっていなければ、ふたたび実力によって制圧するよう命じましたので、縁を保つことは不要なことです。瀬戸内海については、塩飽・能島・来島からはすでに人質を差し出し、城を明け渡し、織田軍に下っています。次に東国では武田勝頼は首を刎ねられ、関東(北条氏)はもちろん奥州まで制圧されると信長様からの下知があり、近々上様みずから出馬され、こちらへ赴くとのことです。そうすれば伯耆口からも軍勢を遣わされますので、こちらと両方向からそちらへ攻め入るのもまもなくのことです。早々に準備され、油断のないようにしてください。謹んで申し上げました。
図 備前・備中境目七城
宛所を欠いているものの、毛利方の国人上原元祐を使者として送ってきた文書への返書と思われる。文面から織田方へ離反すべく説得する一方、実力行使もちらつかせている。
ここで興味深いのは下線部である。武田勝頼はすでに首を刎ねているので「東国」は制圧しており、「関東」はもちろん「奥州」まで織田方の下知に従っていると述べているがもちろんはったりである。