今回は少々飛ばして、中国攻めにおける秀吉の郷村への対応を見ておきたい。
<史料1> 某宛羽柴秀吉書状
尚以[ ]儀、丈夫ニ可被相卜*1候、此口之事ハ[ ]
今度一揆蜂起候在々*2悉以令成敗候、放火候□、此方城*3之儀ハ
来年出馬迄無異儀様ニ丈夫*4・兵粮以下可申付事候、其方注進切々
可被申候、又孫宿*5をハ先々機崎*6ニおかれ候へく候、以上、
重而令申候、岩根*7江つなき城*8として、きい山*9可然所之由候、然者委細垣播*10可被申候間、両三人談合候て、普請被申付、垣駿*11人夫以下家中者迄丈夫ニ被相卜候て可被入置候、左様ニ候者、垣駿ニ三百人之兵粮可被[ ]久蔵かた[ ]可被相渡候、委細垣幡ゟ可有演説*12候、恐〻謹言、
藤吉郎
九月廿五日*13 秀吉(花押)
(宛所欠)
「一、278号、89頁」
<史料2> 弓河内郷宛判物写
条々 ゆミのかわち*14
一、今度当国一揆*15雖令蜂起候、当郷之事、神妙之覚語*16忠節*17ニ候、然者乱妨狼籍*18放火之族不可在之事、
一、為褒美、年貢諸済物*19、亀井新十郎*20如申定*21、向後*22不可有相違事、
一、同為褒美、末代国役令免除事、
右弥於忠節仕者、猶以重而恩章*23可宛行者也、仍如件、
天正八
十月六日 藤吉郎(花押影)
「一、279号、89頁」
(書き下し文)
<史料1>
重ねて申せしめ候、岩根へつなき城として、紀伊山然るべきところのよしに候、しからば委細垣播申されべく候あいだ、両三人談合候て、普請申し付けられ、垣駿人夫以下家中の者まで丈夫に相うらなわれ候て入れ置かるべく候、さようにそうらわば、垣駿に三百人の兵粮[ ]らるべく久蔵かた[ ]相渡さるべく候、委細垣播より演説あるべく候、恐〻謹言、
なおもって[ ]の儀、丈夫に相うらなわれるべく候、この口のことは[ ]、このたび一揆蜂起候在々、ことごとくもって成敗せしめ候、放火候□、此方城の儀は来年出馬まで異儀なきように丈夫兵粮以下申し付くべくことに候、その方注進切々申されべく候、また孫宿をば先々機崎に置かれ候べく候、以上、
<史料2>
条々 弓河内
一、このたび当国一揆蜂起せしめ候といえども、当郷のこと、神妙の覚語忠節に候、しからば乱妨・狼籍・放火の族これあるべからざること、
一、褒美として、年貢・諸済物、亀井新十郎申し定むるごとく、向後相違あるべからざること、
一、同じく褒美として、末代国役免除せしむること、
右いよいよ忠節仕るにおいては、なおもって重て恩章宛行うべきものなり、よってくだんのごとし、
(大意)
<史料1>
重ねて申し上げます。岩根への繋ぎ城として桐山城がふさわしいとのこと。それなら詳しくは垣屋光成の申すように両三人でよく相談し、普請を命じ、垣屋豊続の人夫以下、家中まで壮健な者を選び出し、普請に動員させてください。そうしたなら、三百人分の兵粮は・・・久蔵方・・・渡すことでしょう。詳しくは垣屋光成が申し上げます。謹んで申し上げました。
なお・・・の儀、壮健な者をしっかりと選び出してください。こちらの入口については・・・。このたび一揆に参加した村々はすべて成敗し、焼き払いました。・・・こちらにある城については来年の出馬まで異常のないよう陣夫役・兵粮の確保を命じることにしています。そちらがたびたび注進されているよう孫宿を機崎に配置します。以上。
<史料2>
条々 弓河内郷
一、このたび当国一揆が蜂起したにもかかわらず、当弓河内郷は鳥取城攻めにおいて忠節を尽くした。よって乱妨・狼藉・放火することを禁ずる。
一、褒美として、年貢や諸済物は亀井茲矩が定めるようにする。
一、同様に褒美として、末代に至るまで国役を免除する。
このように忠節を尽くしたうえは、重ねて恩賞をあてがうものとする。以上。
史料1の下線部では一揆に参加した者を殲滅したと述べており、史料2では「織田=羽柴軍に恭順したので乱妨・狼藉・放火を禁ずる」とある。後者から「恭順しなかった場合の乱妨・狼藉・放火はやり放題」であったことが読み取れる。
また、天正9年7月4日秀吉書状に次の記述が見える。
<史料3> 某宛羽柴秀吉書状
(尚〻書略)
一、但州*24七美郡一揆為可令成敗、去廿七日姫路*25を罷立、今月朔日ニ彼郡入口之谷〻追破、悉切捨申候事、
一、同七美郡之奥ニ小代谷与申所者(中略)、右郡中之一揆等取籠申候を、因幡口よりも人数をまわし、同播州口従四方きりあけ*26、昨日三日ニ追崩、なてきり((撫で切り))其外生捕数を不知、はた物*27ニあけ申候事、
(後略)
「一、327号、103頁」
(書き下し文)
一、但州七美郡一揆成敗せしむべきため、去る廿七日姫路を罷り立ち、今月朔日に彼の郡入口の谷〻追い破ぶり、ことごとく切り捨て申し候こと、
一、同じく七美郡の奥に小代谷と申すところは(中略)、右郡中の一揆など取り籠もり申し候を、因幡口よりも人数を回し、同じく播州口四方よりきりあけ、昨日三日に追い崩し、なてきりそのほか生け捕り数を知らず、はた物に上げ申し候こと、
但馬国七美郡の一揆に対し、「ことごとく切り捨て」、「撫で切り、そのほか生け捕り数を知らず、はた物に上げ」と容赦ない対応を取ったことを秀吉自身が自慢げに記している。これが秀吉の「攻め殺し」である。
図2 弓河内郷と鳥取城攻め関係図1
図3 弓河内郷と鳥取城攻め関係図2