先日流れてきた報道に違和感を覚えたので、文書を読んでみたい。
翻刻は以下の写真を利用した。
一、百弐拾四石四斗六升六合者 先高*3
此内
弐拾弐石九斗四升九合者
高岡旅屋〻敷泉水馬場植木畠万引*4
残而
百壱石五斗一升七合者 当高*5
此物成四ツ五分 但京枡五斗表*6也
右通元和七年分ゟ可納所永代為蔵納*7
可有之但以来収納指引之所者郡
並ニ金銀を以可指上候者也
元和九年
二月十四日(黒印)
中郡下関村*15
五左衛門
惣百姓中
(書き下し文)
当村内高岡明き屋敷方免相定むること、
一、124石4斗6升6合は、先高
この内22石9斗4升9合は、高岡旅屋〻敷、泉水、馬場、植木畠、よろず引き
残って、101石5斗1升7合は当高
この物成四ツ五分、ただし京枡5斗俵なり、
右の通り元和七年分より納所すべし、永代蔵納として、代官なく諸役・口米ならびによろず懸り物・買物これあるべからず、ただし以来収納指し引きの所は郡奉行裁判たるべし、右納米下行方へ遣わし、残米のところは越中川西地払いなみに金銀をもって指し上ぐべく候ものなり、
(大意)
当村内にある高岡空き屋敷方の年貢率を以下のように定めました
一、当村高は従来124.466石としていました。
このうちから22.949石は高岡旅屋、泉水、馬場、植木畠として差し引きます
残り101.517石が当年の村高です
この年貢率は4割5分です。ただし京枡で量り、1俵5斗入としなさい。
以上のように元和7年分より納めなさい。永代直納とし、代官の指示なく諸役・口米・すべての小物成・押買いなど禁止します。ただし今後年貢収納については郡奉行の裁量によるものとする。納めた米は下行方へ渡し、米が残ったところは越中川西三郡の相場で換金し、金銀で納めなさい。
本分最後の部分にやや分かりにくいところがあるが、年貢率4割5分を賦課する前に御旅屋ほかを控除したとある。この文書は「書状」などと意味不明な呼び方をせず、様式的には黒印状、内容的には年貢割付状と呼ぶべきである。
国会図書館デジタルコレクションで公開されている「加賀藩史料」を見たが当該年にとくに目を引く記事はなかった*16。ただし近世初期の年貢賦課の様子を具体的に伝える文書であり、大名と村/惣百姓との関係で解釈すべきで、まったく関係のない幕府との政治的関係に言及するのは是非に及ばずとしかいいようがない。