今井林太郎・八木哲浩『封建社会の農村構造』(有斐閣、1955年)収載史料に興味深いものを見つけたので読んでみたい(165頁)。
永代*1売渡申女房之事
与五郎女房 名はかくと申也、年は三十五歳也*2
並 むすめ 名はたねと申也、年は七歳也
右件の女は長田村新兵衛譜代*3の女にて御座候へども、我等御年貢*4つまり*5申に付而、猪兵衛殿へ種〻頼み申候へば、池田村三郎兵衛殿方へ親子共直米*6七斗*7に売渡申所実正也、但しかくは今年より卯の年*8まで御使被下、其後は御隙*9可被下候、如此証文仕候上ハ於子〻孫〻違乱妨申有間敷*10、為後日之如件、
承応二年巳の十二月廿六日*11
長田村*12
売主 新兵衛判
同村
口入*13 猪兵衛判
池田村*14三郎兵衛殿
まいる
(書き下し文)
永代売り渡し申す女房のこと
与五郎女房、名は「かく」と申すなり、年は三十五歳なり
ならびに、娘、名は「たね」と申すなり、年は七歳なり
右くだんの女は長田村新兵衛譜代の女にて御座候えども、われら御年貢詰まり申すについて、猪兵衛殿へ種〻頼み申し候えば、池田村三郎兵衛殿方へ親子とも直米七斗に売り渡し申すところ実正なり、但し「かく」は今年より卯の年までお使い下され、その後は御隙下さるべく候、かくのごとく証文仕り候うえは子〻孫〻において違乱・妨げ申しあるまじく、後日のためくだんのごとし、
(大意)
永代売り渡す女房のこと
与五郎の女房、名前は「かく」、数え年35歳
同じく娘、名前は「たね」、数え年で7歳
右の母娘は長田村新兵衛譜代の者でしたが、本年の年貢上納に差支え、猪兵衛殿に相談したところ、池田村の三郎兵衛殿方へ母娘合わせて米7斗で売り渡したことに間違いありません。ただし、かくは来たる寛文3年*15までお使いになったあと、お暇を下さい。以上のように証文を取り交わした以上、子〻孫〻まで文句を言わないこと。後日の証拠としてしたためました。
この文書は様々な意味において示唆的である。
1.売買の対象となる「譜代」の者が「譜代」と呼ばれるには家族の再生産が不可欠となる。つまり、売買の対象となる者も婚姻が許された。この売買された母娘は与五郎の妻子とある。しかし、「譜代」の者の子孫も主家の所有物であり、本文書のように親子ともども売買されている。
2.40歳を「初老」と呼んだことから、数え年35歳の女房は人生後半といえる。そのためか、10年後には暇を出す=与五郎のもとへ返す約束になっていたようだ。ただし片道切符である点で「永代売り」である。
3.一方娘に年季はない。三郎兵衛方で生涯を終えるのか、別の主家で家族を作るのか、さらに転売されてしまうのかこの時点で定かでない。もちろん、独立的な立場になる可能性も十分ある。
4.年季売のように将来の年代を記す場合、十二支が使われていた点は注意すべきであろう。1966年の出生数大幅減は「ひのえうま」生まれを忌避したためといわれる。最近干支は実用的意味を急速に失っているが、戦後しばらく暦として重要視されていた。
5.「猪兵衛殿へ種〻頼み申」が単に相談を受けただけなのか、仲介料を取って斡旋していたのか気になるところだが、本文書だけではわからない。
6.母娘を売りに出した理由は年貢上納に差し支えたためとある。文字通り受け取れば譜代の者を抱える上層農民も年貢を納められない状況に置かれたことを物語る。
(注意)
現在米は重量で売買されているが、かつて米屋では1升桝で量り容積で売買されていた。米を量る単位は長い間容積だったのである。「石」*16はその代表であるが、「俵」も使われた。ただし、1俵=2~5斗と幅がある。1俵あたり何斗入か、寛政年間成立の「地方凡例録」では同じ国でも郡により異なり、「御料」=幕府領でも異同がある。ましてや「私領」=大名領では「まちまち」に違いなかろうと記している。
換算はこちらのサイトが便利。
*1:前近代の売買は年季売が基本だったため「永代」とわざわざ断る必要があった
*2:年齢は数え年
*3:代々、ここでは長田村新兵衛家に代々仕えてきたの意
*4:領主への年貢、ほかに小作料などを年貢と呼ぶ場合もある
*5:詰まり、困窮する・苦しくなる
*6:代価として売り手に渡す米
*7:1斗=約18リットル、7斗=およそ126リットル
*8:寛文3(1663)年
*9:すき、ひま・いとま
*10:「候」脱カ
*11:承応2年12月26日はユリウス暦1654年2月13日、グレゴリオ暦同年同月23日。家綱政権時
*13:仲介人
*15:未来の年号を予見できるわけではないので、十二支を使用する
*16:「斛」