日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正5年4月10日伊部郷百姓中宛羽柴秀吉判物

伊部*1方之内城山*2之事とらせ候、牛馬持*3にて別耕作等可仕者也、

  天正

    卯月十日            秀吉(花押)

      伊部郷

         百姓中

                                   「一、136号、46頁」

(書き下し文)

伊部方のうち城山のこと取らせ候、牛馬持ちにて別して耕作などつかまつるべきものなり、

(大意)

近江国浅井郡伊部郷の領域のうち、城山は伊部郷に与えるので、牛馬持ちの百姓に特別に耕作させることとする。

 

Fig.1 近江国浅井郡伊部郷周辺図

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                   「日本歴史地名大系」滋賀県より作成

 Fig.2 伊部郷と小谷城

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                        Google Mapsより作成

特別に「牛馬持」に城山を与えていることから、牛馬を所有するような有力百姓に特権的な地位を与えたとも解釈できるし、急峻な地形だから牛馬の力がなければ耕作できないだろうという意味で勧農的な内容とも読める。ここではどちらとも判断しがたい。

 

ただ「城山」をめぐって他村と争っていた可能性も否定できない。「山問答」と呼ばれるように、山は肥料となる落ち葉や燃料である薪など資源の宝庫であるため郷村同士で「喧嘩」、つまり武器を持ちだして合戦に及ぶケースが少なくないからである。伊賀と甲賀一揆契状には「地侍」層が「百姓は血の気が多くすぐ実力行使に及びがちなので、よくよく言い聞かせるように」と申し合わせているくらいである*4。そうした状況から「とらせ候」の文言に秀吉による裁定があったように読み取ることもできるが、あくまでも可能性のひとつに過ぎない。

 

*1:近江国浅井郡、図1参照

*2:小谷城の跡地カ、図2参照

*3:農耕用の牛馬を所持している有力百姓の意か

*4:拙ブログ 

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