伊部*1方之内城山*2之事とらせ候、牛馬持*3にて別而耕作等可仕者也、
天正五
卯月十日 秀吉(花押)
伊部郷
百姓中
「一、136号、46頁」
(書き下し文)
伊部方のうち城山のこと取らせ候、牛馬持ちにて別して耕作などつかまつるべきものなり、
(大意)
近江国浅井郡伊部郷の領域のうち、城山は伊部郷に与えるので、牛馬持ちの百姓に特別に耕作させることとする。
Fig.2 伊部郷と小谷城
特別に「牛馬持」に城山を与えていることから、牛馬を所有するような有力百姓に特権的な地位を与えたとも解釈できるし、急峻な地形だから牛馬の力がなければ耕作できないだろうという意味で勧農的な内容とも読める。ここではどちらとも判断しがたい。
ただ「城山」をめぐって他村と争っていた可能性も否定できない。「山問答」と呼ばれるように、山は肥料となる落ち葉や燃料である薪など資源の宝庫であるため郷村同士で「喧嘩」、つまり武器を持ちだして合戦に及ぶケースが少なくないからである。伊賀と甲賀の一揆契状には「地侍」層が「百姓は血の気が多くすぐ実力行使に及びがちなので、よくよく言い聞かせるように」と申し合わせているくらいである*4。そうした状況から「とらせ候」の文言に秀吉による裁定があったように読み取ることもできるが、あくまでも可能性のひとつに過ぎない。