日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正2年6月6日平方名主百性中宛羽柴秀吉判物

 

当郷家並*1ニ、明後日八日ニ、今はま*2ふしん*3ニ、すき*4・くわ*5并もつこう*6持候て、諸奉公人出家商人たりといふ共、一人も不残可罷出候、若於油断*7者、急可申付者也、

                     藤吉郎

   六月六日*8                秀吉(花押)

   平方

    名主百性中

    

 (一、88号)

 

                          

(書き下し文)

 

当郷家なみに、明後日八日に、今浜普請に、鋤・鍬ならびに持籠持ち候て、諸奉公人・出家・商人たりというとも、一人も残らず罷り出ずべく候、もし油断においては、きっと申し付くべきものなり、

 

(大意)

 

平方郷の者は家一軒につき一人、明後日8日今浜普請のため、鍬、鋤および持籠を持参し、奉公人・出家・商人の身分・職分に限らず全員残らず徴発する。もし出頭しなかった者がいれば、きびしく追及する。

 

 

Fig.1 今浜(長浜)周辺郷村図

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                   「日本歴史地名大系」滋賀県より作成

Fig.2 畚、持籠

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          左「新選漢和辞典WEB版」右「コトバンク」より作成

 

「者也」という書止文言に、城主となった秀吉の自信を見るのは読み込みすぎだろうか。これは近江今浜、のち秀吉により「長浜」と改められた*9今浜城普請に、人夫を駆り出す触である。ほかに6月8日「下八木地下中」宛(89号)、7月16日「唐川・布施・高田百姓中」宛(90号)が残されている。とくに89号、90号では「出家侍奉公人ニよらす」、「出家侍たり共」と「侍」「奉公人」が見え、「商人」が見えなくなる。また「出家」と「侍」の順序が逆転している。たった3通の文書で政策の変更を云々することはできないものの、「侍」「奉公人」が人足として、つまり非戦闘員として動員されている点は見逃せない。しかも同じ郷村に居住していることが大前提となっている。

 

いわゆる「兵農分離」*10は、(1)軍役を負担する「兵」身分と人夫役などを負担する「農」身分の分離、(2)城下町に集住する武士身分と村に居住する百姓身分の居住の分離の二側面を一体として捉える概念として提唱された。ところがこれらの文書は上記の条件をいずれもみたしていない。

 

したがって天正2年の今浜城主となった秀吉に兵農分離を政策基調とする兆候は見られない。もちろん築城を急がせたという特殊な事情を差し引いて考慮すべきだが、それでもかりに「兵農分離」を目指していたとするなら、それに相反する政策を一時的とはいえ実行するだろうか。

 

また、諸道具が自弁であることも重要である。小田原北条氏でも同様の徴発が行われている。ただ賃金が支払われている点で異なる。

*1:一軒あたり、軒割で。某放送局の受信料はこの基準を採用しているという意味で中世的と言える

*2:近江国長浜、図1参照

*3:普請

*4:

*5:

*6:畚、持籠:土砂などを運ぶ袋状の運搬具、図2参照

*7:怠ること、等閑にすること

*8:天正2年

*9:戦国期、新たに獲得した土地に佳名を宛てることが珍しくなかった。現在の地名表記変更とは目的が異なるが、「浜松」「松山」などのように「松」が付く、いかにもめでたい地名はおおむね戦国織豊期に変更されたものが多い。また黒田孝高のように大名鉢植え化により、筑前博多を本貫の地「備前国邑久郡福岡」から「福岡」とした例もある。明治の町村合併においても「富」「豊」などの文字をあてる、歴史的経緯を無視した町村名が氾濫した。地名を考察する際は、古代以来何度も変更を重ねていることを踏まえねばならない

*10:近年は塚本学氏の提言により「士農分離」と呼ぶことが多い。「兵」は武士身分ではなく「侍」「若党」と呼ばれる「奉公人」身分に属していたためである。大名行列では各大名は華美を競うようになり、頭数を増やすため百姓を雇うことすらあった。寛永の武家諸法度では「従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ」と戒めているくらいである