日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元亀2年11月25日賀茂郷銭主方并惣中宛木下秀吉書状写

態以折紙令申候、仍賀茂郷*1徳政免除之儀付而、去年(闕字)御下知朱印*2被遣候処、一揆中恣申掠候哉、重今度(闕字)御下知被遣之由候、如何之儀候哉、我等朱印申次候間、断*3御理*4可申上覚悟*5候、一揆等令在岐阜、種々雖申上候、信長無許容候、右之儀、上中*6・才阿*7へも申候、当郷之儀不混于他*8候条、徳政之事棄破之朱印被遣之候、然上者永代預状*9等弥以不可有別儀候、恐々謹言、

                    木下藤吉郎

   十一月廿五日*10            秀吉(花押影)

 賀茂郷

   銭主方并

   惣中

                               「一、44号、16頁」

(書き下し文)

わざわざ折紙をもって申しせしめ候、よって賀茂郷徳政免除の儀について去年御下知朱印遣わされ候ところ、一揆中ほしいままに申し掠め候や、かさねて今度御下知遣わさるのよし候、いかがの儀候や、我等朱印申し次ぎ候あいだ、断じておことわり申し上ぐべき覚悟に候、一揆など岐阜にあらしめ、種々申し上げ候といえども、信長許容なく候、右の儀、上中・才阿へも申し候、当郷の儀他に混ぜず候条、徳政のこと棄破の朱印これを遣わされ候、しかるうえは永代預状などいよいよもって別儀あるべからず候、恐々謹言、

(大意)

 折紙をもって申し入れます。賀茂郷徳政免除の件について、昨年信長様の下知が朱印状によって申し渡されたところ、徳政を幕府に強要した一揆勢が好き放題に借用関係を破棄しているためか、ふたたびまた下知が下されるとのこと。どのようなことになっているのか、われらは信長様の朱印状をたんに申し伝えるだけなので、必ず侘言を申し上げる心づもりでいるだろう。一揆勢が岐阜にもあらわれているので、いろいろ弁明したところで信長は許容しない。このことは、上野秀政・才阿弥へも伝えている。賀茂郷の様子は際立っているので、徳政を免除する旨の朱印状が発給される。したがって永代売買の証文など支障がないようにしっかり保管するようにしなさい。

 

本文書は45号の本文と34号(引用書では35号)の写が接合されて、ひとつの文書に仕立てられているので、厳密な解釈には最低でも写真、できれば原物を観察する必要がある。

 

元亀元年の徳政令に対し、信長は特定の郷村に徳政免除を保証する朱印状を発給している。しかし、信長の朱印状の御利益はそれほどのものではなかったようで、徳政を幕府に要求した「一揆中」は借用証文などを破棄していた。そこで再度朱印状が発給され、今度は信長も用捨しないので「御理」=謝罪することになるだろうから、銭主たちに現存する証文をしっかりと管理するよう伝えたものである。

 

46号文書でも「今に難渋の由」とあり、賀茂郷で信長による徳政免除の朱印状が蔑ろにされていることは確認できる。

 

Fig. 山城国愛宕郡賀茂郷周辺図

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「日本歴史地名大系」京都府より作成 「上賀茂社六郷」比定も同書による

 

*1:山城国愛宕郡賀茂郷、上図参照

*2:元亀元年11月日賀茂郷銭主方・社人同惣中宛織田信長朱印状写「奥野、262号、上、432頁」

*3:必ず

*4:謝罪、侘言

*5:心の準備

*6:上野秀政、足利義昭の近習

*7:才阿弥、足利義昭の奉公衆。年月日未詳「大徳寺領大宮地子銭之事」(「大徳寺文書之一」620号、633頁)に「一、中嶋与兵衛尉奉公衆ニ被召加之由申掠、地子銭五六年分未進仕候、然処以才阿弥聴上意候処、曲事之由被仰出」とあり、足利義昭に直接「上意」を仰ぐ立場にあったことがわかる。「言継卿記補遺三」天正4年1月15日条にも「才阿弥等祗候、音曲有之、御酒及大飲、次禁中徘徊、次帰宅了」と見える。さらに「奥野、181号」にも見える

*8:「自余に混ぜず」と同様「きわだった」「並々でない」の意

*9:所領・金銭などを預けたとき、預かり主が預け主に差し出す文書。中世後期には利子付きの借用書が徳政によって破棄されたため、実質的に利子付きの契約を結びながら、形式上無利息の預状が作成された。ここでは「永代」とあるので永代売買の請取状を意味する。なお上島有氏は「あずかりじょう」と「あずけじょう」を区別している。「大日本百科全書」当該項目参照

*10:元亀2年